【姓名】 王象(おうしょう) 【あざな】 羲伯(ぎはく)
【原籍】 河内郡(かだいぐん)
【生没】 ?~?年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・衛覬伝(えいきでん)』に付された「王象伝」あり。
『皇覧(こうらん)』の編纂(へんさん)にあたった名文家、羊飼いをしていたこともある
父母ともに不詳。
王象は幼いころに両親を亡くし、他家の奴隷となった。17、8歳になると、羊飼いとして使役されながらもこっそり書物を読み、そのことから鞭(むち)や杖で打たれていた。
同郡の楊俊(ようしゅん)は才能や人柄を評価し、王象を買い戻して引き取る。後に彼のために嫁を迎えたうえ、新たに家まで建てた。
建安(けんあん)年間(196~220年)、王象は同郡の荀緯(じゅんい)らとともに、魏の王太子(217~220年)の曹丕(そうひ)から礼遇される。
王粲(おうさん。217年没)・陳琳(ちんりん。217年没)・阮瑀(げんう。212年没)・路粋(ろすい。214年没)らが死去した後、新進の人物の中では王象が最も優れていたという。
魏が天下を支配すると、王象は散騎侍郎(さんきじろう)に任ぜられ、やがて散騎常侍(さんきじょうじ)に昇進し列侯(れっこう)に封ぜられる。
220年、曹丕が帝位に即くと、王象は詔(みことのり)を受けて(諸儒とともに)『皇覧』の編纂にあたり、秘書監(ひしょかん)を兼務した。
『皇覧』は数年を経て完成し、宮中の記録保管庫に所蔵される。これは40余部から成るもので、各部が数十編に分かれており、合わせて800余万字にも上るものだった。
王象は性格が温厚なうえ、文章も穏やかで典雅だった。そのため都の人々は心を寄せ、「儒学の宗家」と称したという。
222年、曹丕が宛(えん)に行幸した際、随行の官吏に対し、郡県に迷惑をかけてはならないとの詔を下す。
ところが、宛県令(えんけんれい)は詔の趣旨を取り違え、市場の門を閉鎖する。
これを聞いた曹丕は「朕は盗賊なのか!」と言って腹を立て、宛県令と南陽太守(なんようたいしゅ)の楊俊を逮捕した。
このとき王象は、尚書僕射(しょうしょぼくや)の司馬懿(しばい)や散騎常侍の荀緯とともに楊俊の命乞いをする。みな顔を血に染めて叩頭(こうとう)したが、曹丕は許さなかった。
楊俊は、罪をわきまえていると言って自殺。人々は冤罪(えんざい)と考え、悲しみ悼んだという。
王象は恩人の楊俊を救えなかったことを無念に思い、ほどなく病を得て亡くなった(時期は不明)。
管理人「かぶらがわ」より
登場箇所が少ないためコメントしにくいです。
上で挙げた記事は、ほぼ『三国志』(魏書・楊俊伝)および裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』によるもの。
王象が恩人の命を救おうと懇願したのは当然で、立派な行為だと思うのですけど……。
まだ曹操(そうそう)が跡継ぎを決めていなかったころ、楊俊は曹丕と曹植(そうしょく)の一方に加担することこそなかったものの、内密に意見を求められた際に曹植のほうが優れているとたたえ、このことで曹丕の恨みを買っていました。
なので通常の命乞いより、曹丕が容れる可能性が低かったのではないかと思います。
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