王謀(おうぼう) ※あざなは元泰(げんたい)

【姓名】 王謀(おうぼう) 【あざな】 元泰(げんたい)

【原籍】 漢嘉郡(かんかぐん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第080回で初登場。
【正史】 登場人物。

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益州(えきしゅう)の高官を歴任した後、蜀(しょく)の九卿(きゅうけい)に昇る

父母ともに不詳。

王謀は振る舞いが礼にかなっており、品行方正な人物だったという。劉璋(りゅうしょう)の時代(194~214年)に巴郡太守(はぐんたいしゅ)となり、召し還されて益州の治中従事(ちちゅうじゅうじ)に転ずる。

214年、劉備(りゅうび)が成都(せいと)で劉璋を降して益州牧(えきしゅうぼく)を兼ねると、王謀は別駕(べつが)に任ぜられた。

219年、劉備が漢中王(かんちゅうおう)になると、王謀は少府(しょうふ)に昇進。

223年、王謀は関内侯(かんだいこう)に封ぜられ、後に頼恭(らいきょう)に代わって太常(たいじょう)となる。その後の王謀については記事がない。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・楊戯伝〈ようぎでん〉)の『季漢輔臣賛(きかんほしんさん)』の陳寿(ちんじゅ)の注記によるものです。このほかに以下のような記事も見えました。

後年、大将軍(だいしょうぐん)の蔣琬(しょうえん)が張休(ちょうきゅう)に尋ねた。

「漢嘉郡の先輩に王元泰(王謀)という人がおられたが、いま彼の跡を継ぐべき者は誰だろうか?」

すると張休が答えた。

「王元泰ほどの人物の跡を継ぐ者は州にもおりません。まして私たちの郡などにはとても見当たりません」

これは王謀の評価が高かったことを示す話らしいのですけど、ここで出てきた張休が引っかかります。

蔣琬が大将軍になったのが235年のこと。蜀には、228年に馬謖(ばしょく)らとともに処刑された将軍の張休がいましたが、もし彼だとすると年が合いません。

別に魏(ぎ)や呉(ご)にも張休という人物が見えており、複数人の名のある張休がいたものと思われます。

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