吾粲(ごさん) ※あざなは孔休(こうきゅう)

【姓名】 吾粲(ごさん) 【あざな】 孔休(こうきゅう)

【原籍】 呉郡(ごぐん)烏程県(うていけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 第135話で初登場。
【演義】 第038回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・吾粲伝』あり。

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孫霸(そんは)らの讒言(ざんげん)により無念の刑死

父母ともに不詳。

吾粲は烏程県長(うていけんちょう)の孫河(そんか)の下で働き、高く評価される。のち孫河が将軍(しょうぐん)になり、地方長官を自分で選べるようになると、吾粲を曲阿県丞(きょくあけんのじょう)に任じた。

やがて吾粲は長史(ちょうし)に昇進し、大いに治績を上げる。もともと彼は後ろ盾のない低い身分だったが、同じ呉郡出身の陸遜(りくそん)や卜静(ぼくせい)と肩を並べ、彼らと等しい名声を得るまでになった。

209年、孫権(そんけん)が車騎将軍(しゃきしょうぐん)になると、吾粲はその将軍府で主簿(しゅぼ)を務める。のちに地方へ出て山陰県令(さんいんけんのれい)となったあと、中央へ戻り参軍校尉(さんぐんこうい)に任ぜられた。

222年9月、吾粲は呂範(りょはん)や賀斉(がせい)らとともに水軍をひきい、洞口(どうこう)で魏(ぎ)の曹休(そうきゅう)の侵攻を食い止める。

同年11月、暴風により味方の船のもやい綱が切れたため、岸に乗り上げて魏軍に拿捕(だほ)されたり、転覆して溺死者が出た。

無事だった大型船に水面を漂う兵士たちが取りすがったが、多くの船では沈没を恐れ、矛を遣って彼らを船に登らせないようにした。それでも吾粲と黄淵(こうえん)だけは水夫に救助を命じ、100人以上が命拾いしたという。帰還後、吾粲は会稽太守(かいけいのたいしゅ)に昇進した。

235年、吾粲は志願兵を募り部隊を編成し昭義中郎将(しょうぎちゅうろうしょう)に任ぜられ、呂岱(りょたい)と山越(さんえつ。江南〈こうなん〉に住んでいた異民族)の討伐にあたる。

そして翌236年、廬陵(ろりょう)で反乱を起こしていた李桓(りかん)を捕らえた。

のち吾粲は中央へ戻って屯騎校尉(とんきこうい)や少府(しょうふ)を務め、太子太傅(たいしたいふ)に昇進した。

242年、皇太子(こうたいし)の孫和(そんか)と魯王(ろおう)の孫霸との間で「二宮の変(孫和派と孫霸派による確執)」が起こると、吾粲は己の正しいと思うところを遠慮なく述べる。彼は嫡子と庶子を明確に区別するよう主張し、孫霸を夏口(かこう)へ移したうえ、その同調者である楊竺(ようじく)の追放を求めた。

また、吾粲は武昌(ぶしょう)にいた陸遜とも連絡を取り合っており、陸遜は彼からの情報に基づいて上表文を奉り、たびたび孫権を強く諫めた。そのため吾粲は孫霸や楊竺らの讒言を受けることになり、投獄後に誅殺(時期は不明)された。

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管理人「かぶらがわ」より

『三国志』(呉書・歩騭伝〈ほしつでん〉)に付された「歩闡伝(ほせんでん)」に、潁川(えいせん)の周昭(しゅうしょう)が歩騭や厳畯(げんしゅん)らを称賛した文章が載せられていました。

それによると、顧邵(こしょう)に厚遇された吾粲はもともと牧童だったということです。そうした恵まれない境遇から太子太傅にまで昇りましたが、孫権がきっかけを作った「二宮の変」の巻き添えとなってしまいましたね。

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