【姓名】 曹徽(そうき) 【あざな】 ?
【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん)
【生没】 ?~242年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・東平霊王徽伝(とうへいれいおうきでん)』あり。
魏(ぎ)の曹操(そうそう)の息子で曹丕(そうひ)の異母弟、東平霊王
父は曹操、母は宋氏(そうし)。息子の曹翕(そうきゅう)は跡継ぎ。
曹徽は、叔父で朗陵哀侯(ろうりょうあいこう)の曹玉(そうぎょく)の跡を継いだ。217年に歴城侯(れきじょうこう)に封ぜられた。
221年に歴城公に爵位が進み、翌222年には廬江王(ろこうおう)に移封され、翌223年には寿張王(じゅちょうおう)に移封された。
翌224年に改めて寿張県王に封ぜられ、翌225年には東平王(とうへいおう)に移封された。
234年、曹徽は属官に命じて寿張県の官吏を鞭(むち)打ちとしたため、担当官吏に上奏された。曹叡(そうえい)の詔(みことのり)によって1県500戸を削られたものの、同年中に返された。
242年に薨去(こうきょ)し、息子の曹翕が跡を継いだ。
管理人「かぶらがわ」より
登場箇所が少ないためコメントしにくいです。
『三国志』(魏書・高堂隆伝〈こうどうりゅうでん〉)によると、「高堂隆は、曹徽が歴城侯だったとき文学(ぶんがく。官名)を務めており、後に国相(こくしょう)に転じた」ということです。
「曹徽が曹操の喪に遭っても哀悼の意をを示さず、かえって狩猟に出かけたりしていたため、高堂隆は道理を説いて直諫した」そうで、「補導の任にある者としての節義にかなっていた」のだとも。いくらか曹徽の性格がうかがえる記事ですね。
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