【姓名】 曹茂(そうぼう) 【あざな】 ?
【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん)
【生没】 ?~?年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・楽陵王茂伝(らくりょうおうぼうでん)』あり。
魏(ぎ)の曹操(そうそう)の息子で曹丕(そうひ)の異母弟、楽陵王
父は曹操、母は趙氏(ちょうし)。
息子の曹竦(そうしょう)は、曹偃(そうえん)が薨(こう)じた後で封国が没収されていた、曹鑠(そうしゃく)の相王家(しょうおうけ)の跡継ぎとして立てられた。
曹茂は217年に万歳亭侯(ばんざいていこう)に封ぜられ、翌218年に平輿侯(へいよこう)に移封された。
222年に乗氏公(じょうしこう)に移封され、226年には中丘公(ちゅうきゅうこう)に移封された。
翌227年に聊城公(りょうじょうこう)に移封され、同年に聊城王に爵位が進んだ。232年には曲陽王(きょくようおう)に移封された。
242年、東平霊王(とうへいれいおう。曹徽〈そうき〉)が薨去した際、曹茂は喉の痛みを理由に哀悼の声を上げようとせず、生活ぶりや宮殿への出入りも普段通りだった。
このため担当官吏は封国を没収するよう上奏したが、曹芳(そうほう)は詔(みことのり)によって1県500戸を削るにとどめた。
244年に楽陵王に移封された。その際に曹芳の詔が下され、子どもが多いのに曹茂の封国から上がる租税が少なかったため、先に削った1県500戸を返されたうえ、さらに700戸を加増された。
嘉平(かへい)年間(249~254年)・正元(せいげん)年間(254~256年)・景元(けいげん)年間(260~264年)にたびたび加増され、5千戸となった。
管理人「かぶらがわ」より
登場箇所が少ないためコメントしにくいです。
本伝によると「曹茂は傲慢かつ強情な性格だったため、若いころから曹操に愛されなかった」ということです。曹丕の時代になっても、彼ひとりだけ王になれませんでした。
曹叡(そうえい)の時代となった227年、ようやく聊城王に封ぜられましたが、このときの詔にも、曹茂が若いころ礼の教えを学ばず、長じてからも善道に励まなかったことが指摘されており――。
「たびたび太皇太后(武宣卞皇后〈ぶせんべんこうごう〉)が、近ごろの曹茂は少し物事がわかるようになり、過去の非を悔い、今後は善を修めたいと願っていると曹叡に伝えていた」のだという。
そこで太皇太后の思いを酌む形で、曹茂を聊城王に封じたのだと。
では、その後の曹茂はどうだったのか? 242年の一件からうかがう限り、彼は根っからのひねくれ者だったのか……。
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