曁豔(きえん) ※あざなは子休(しきゅう)

【姓名】 曁豔(きえん) 【あざな】 子休(しきゅう)

【原籍】 呉郡(ごぐん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

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人事刷新の志は良かったものの、その時機を誤る

父母ともに不詳。

曁豔は朱治(しゅち)に取り立てられ、後に同郡の張温(ちょうおん)から招かれて選曹郎(せんそうろう)となり、やがて尚書(しょうしょ)まで昇進する。

曁豔は自分の考えに固執するところがあり、気性も激しく、人物の批評を好んだ。

当時、曁豔は三署(さんしょ)の郎官(ろうかん)に不適当な人物が多いのを見ると、彼らの落ち度を容赦なく指摘し、厳格な人事評価を断行する。その結果、降格者が続出し、もとの役職に留まれる者は1割もいなかった。

さらに、汚職の度合いがひどい者をみな軍吏とし、特別な営府を設けて呼び集めるといったことまで行った。

そのため次第に恨みや憤りの声が高まり、「曁豔と選曹郎の徐彪(じょひゅう)は専断を行っており、賞罰も不公平だ」と讒言(ざんげん)され、ふたりとも自殺に追い込まれた(時期は不明)という。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は『三国志』(呉書〈ごしょ〉・張温伝)などによるものです。

曁豔が度を越した人事評価を始めたとき、陸遜(りくそん)・陸瑁(りくぼう)・朱拠(しょきょ)といった面々に諫められたものの、彼は聞き入れようとしませんでした。

大胆な人事の刷新という志は悪くなかったのでしょうけど、その進め方があまりにも極端すぎました。

それに曁豔が自殺に追い込まれたのは、実際のところ孫権(そんけん)が張温を失脚させようと策を巡らせたことに起因するので、彼らは張温の巻き添えを食った形ですね。

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