張翼(ちょうよく) ※あざなは伯恭(はくきょう)

【姓名】 張翼(ちょうよく) 【あざな】 伯恭(はくきょう)

【原籍】 犍為郡(けんいぐん)武陽県(ぶようけん)

【生没】 ?~264年(?歳)

【吉川】 第201話で初登場。
【演義】 第064回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・張翼伝』あり。

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劉禅(りゅうぜん)の降伏後、鍾会(しょうかい)が起こした反乱の巻き添えになる

父母ともに不詳。張微(ちょうび)という息子がいた。

214年、劉備(りゅうび)が成都(せいと)で劉璋(りゅうしょう)を降して益州牧(えきしゅうぼく)を兼ねると、張翼は書佐(しょさ)に任ぜられる。

そして、建安(けんあん)年間(196~220年)の末に孝廉(こうれん)に推挙され、江陽県長(こうようけんちょう)となった。

後に涪陵県令(ふうりょうけんれい)、梓潼太守(しとうたいしゅ)、広漢太守(こうかんたいしゅ)、蜀郡太守を歴任。

231年、張翼は庲降都督(らいこうととく)・綏南中郎将(すいなんちゅうろうしょう)に任ぜられる。彼は法を厳格に運用し、異民族の歓心を買うようなことはしなかった。

233年、南夷(なんい)の有力者の劉冑(りゅうちゅう)が背いて諸郡を荒らし回ると、張翼はこれを撃破しないうちに、成都への召還命令を受ける。

配下の者たちは、すぐに帰って罪に服したほうがよいと言ったが、張翼は聞き入れず、兵糧を整えたうえで、後任の馬忠(ばちゅう)の到着を待ってから出発した。

馬忠は劉冑を斬って南方の平定に成功したが、これには張翼の事前の配慮が役立ったため、話を聞いた丞相(じょうしょう)の諸葛亮(しょかつりょう)を感心させたという。

翌234年、諸葛亮が武功(ぶこう)に出陣した際、張翼は前軍都督(ぜんぐんととく)となり、扶風太守(ふふうたいしゅ)を兼ねる。

この年、諸葛亮が陣没すると、張翼は前領軍(ぜんりょうぐん)に任ぜられ、先の劉冑討伐時の功績が採り上げられて関内侯(かんだいこう)に封ぜられた。

238年、張翼は中央へ入って尚書(しょうしょ)に任ぜられ、ほどなく督建威(とくけんい)・仮節(かせつ)を経て征西大将軍(せいせいだいしょうぐん)に昇進し、都亭侯(とていこう)に爵位が進む。

255年、張翼は衛将軍(えいしょうぐん)の姜維(きょうい)とともに成都に帰還。

姜維が再度の出兵を建議したため、ただひとり張翼は朝議の席で反対する。だが姜維は聞き入れず、やむなく張翼も鎮南大将軍(ちんなんだいしょうぐん)として従軍した。

姜維は狄道(てきどう)に進攻し、洮水(とうすい)の西で魏(ぎ)の雍州刺史(ようしゅうしし)の王経(おうけい)を大破。魏軍の戦死者は5桁の数に上る。

このとき張翼は、これ以上の追撃を思いとどまるよう説いたが、姜維は腹を立て、そのまま狄道城を包囲した。

しかし、魏の征西将軍の陳泰(ちんたい)が救援に駆けつけたため城を陥せず、姜維は引き揚げて鍾題(しょうだい)に留まる。

張翼が自分の意見に異論を唱えて以来、姜維は彼のことをよく思わなくなったが、それでも各地の遠征に同行させたという。

259年、張翼は左車騎将軍(さしゃきしょうぐん)に昇進し、(名目上の)冀州刺史(きしゅうしし)を兼ねる。

263年、張翼は姜維とともに、剣閣(けんかく)で魏の鍾会の軍勢を防いだ。

ところが、魏の鄧艾(とうがい)が陰平(いんぺい)から景谷道(けいこくどう)を通り、剣閣の脇から侵入。緜竹(めんちく)で諸葛瞻(しょかつせん)を撃破すると、劉禅の降伏を受け入れて成都を占領した。

そのうちに劉禅の詔(みことのり)を受けたため、張翼らは武器を捨てて鎧(よろい)も脱ぎ、涪(ふう)にいる鍾会のところへ出頭した。

翌264年、鍾会に陥れられた鄧艾が捕らえられ、囚人護送車で送還されると、張翼は鍾会や姜維らとともに成都へ入った。

成都入城後に鍾会が謀反を起こすと、魏の将兵は従おうとせず、かえって鍾会や姜維らを殺害。このとき張翼も殺害されたという。

管理人「かぶらがわ」より

『三国志』(蜀書・趙雲伝〈ちょううんでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『趙雲別伝(ちょううんべつでん)』には、219年に劉備と曹操(そうそう)が漢中(かんちゅう)を巡って争ったとき、沔陽県長(べんようけんちょう)として張翼も従軍したことが見えました。

張翼は各県の令長から太守へ着実に昇進し、その後は長く将軍として活躍しました。姜維の方針や用兵を評価していなかったようですけど、張翼の最期にも、鍾会に厚遇された姜維の影響がありましたね。

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