孫晧(そんこう) ※あざなは元宗(げんそう)

【姓名】 孫晧(そんこう) 【あざな】 元宗(げんそう)

【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん)

【生没】 242~283もしくは284年(42か43歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第113回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫晧伝』あり。

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呉(ご)の第4代皇帝

父は孫和(そんか)、母は何氏(かし)。一名を彭祖(ほうそ)、あざなを晧宗(こうそう)といった。

孫徳(そんとく)・孫謙(そんけん)・孫俊(そんしゅん)は弟。跡継ぎの孫瑾(そんきん)をはじめ、10人以上の息子を儲けたことがうかがえるものの、孫瑾以外の名はわからない。

264年7月、叔父の孫休(そんきゅう)が崩御(ほうぎょ)し、丞相(じょうしょう)の濮陽興(ぼくようこう)や左将軍(さしょうぐん)の張布(ちょうふ)の意向を受けて帝位に即く。

即位前の評判は高かったものの、即位後ほどなく本性を現し、無意味な遷都や広大な宮殿の造営といった暴政を続けたため人心を失う。

280年3月(2月とも)、侵攻してきた晋(しん)の王濬(おうしゅん)に降伏し、呉は滅亡する。

同年4月に晋の司馬炎(しばえん)から帰命侯(きめいこう)に封ぜられ、翌5月には一族とともに洛陽(らくよう)に到着。

その後、284年(283年とも)に洛陽で死去した。

主な経歴

-242年(1歳)-
この年、誕生。

-258年(17歳)-
9月、叔父の孫亮(そんりょう)が、孫綝(そんりん)の誅殺に失敗して帝位を追われ、会稽王(かいけいおう)に貶(おと)される。

10月、叔父の孫休が帝位に即き、孫晧は烏程侯(うていこう)に封ぜられる。

烏程へ移った後、西湖(せいこ)の平民の景養(けいよう)に人相を占ってもらうと、「必ずやとても高貴な身分になられるでしょう」と言われた。これを聴いて密かに喜んだが、他人には漏らさなかった。

-264年(23歳)-
7月、孫休が崩御する。

7月、丞相の濮陽興や左将軍の張布の意向により、迎えられて帝位に即く。「永安(えいあん)」を「元興(げんこう)」と改元し、大赦を行う。

孫晧の即位にあたっては、左典軍(さてんぐん)の万彧(ばんいく)の進言が大きく影響した。

万彧は烏程県令(うていけんれい)を務めたことがあり、孫晧と親しかった。そのため万彧は、孫晧の見識や態度を称賛し、しばしば濮陽興や張布の耳にも入れていた。

孫休が崩じたとき、ちょうど蜀(しょく)が滅んだ(263年11月のこと)ばかりだったうえ、交趾(こうし)で反乱も起きていた。呉の人々は立派な主君を得ることを切望しており、こうした事情が孫晧に有利に働いた。

8月、上大将軍(じょうだいしょうぐん)の施績(しせき。朱績〈しゅせき〉)と大将軍(だいしょうぐん)の丁奉(ていほう)を左右の大司馬(だいしば)に任じ、張布を驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)に任じて侍中(じちゅう)を加官する。

このほかにも多くの者の位階を進めて恩賞を下賜した。

9月、皇太后の朱氏(しゅし。孫休の皇后)の位を貶して景皇后(けいこうごう)とする。

その一方、亡父の孫和に文皇帝(ぶんこうてい)と諡(おくりな)したうえ、母の何氏の位を上げて皇太后とする。

さらに、烏程に築いた明陵(めいりょう)に孫和を改葬。墓守りのために200戸からなる園邑(えんゆう)を置き、令(れい)と丞(じょう)を任命して陵の守護を命じた。

10月、従兄弟の孫ワン(そんわん。孫休の皇太子。雨+單)を豫章王(よしょうおう)に封じ、その弟の孫コウ(そんこう。雷+大)を汝南王(じょなんおう)に、孫壾(そんもう)を梁王(りょうおう)に、孫ホウ(そんほう。亠+先+攴)を陳王(ちんおう)に、それぞれ封ずる。

また、滕氏(とうし)を皇后に立てた。

孫晧は念願かなって帝位に即くと、粗暴で驕慢(きょうまん)になった。肝が小さくて執念深く、酒色を好んだため、臣下は官位の高下を問わず、みな失望した。

濮陽興と張布は、孫晧を帝位に迎えたことを密かに後悔したが、それを讒言(ざんげん)する者があった。

11月、濮陽興と張布を誅殺する。

12月、孫休を定陵(ていりょう)に葬る。

12月、滕皇后の父の滕牧(とうぼく)を高密侯(こうみつこう)に封じたうえ、舅(おじ。母の兄弟)の何洪(かこう)ら3人も列侯(れっこう)に封ずる。

この年、魏(ぎ)の曹奐(そうかん)が交趾太守(こうしたいしゅ)を任命し、交趾郡に赴任させた。

この年、魏の相国(しょうこく)の司馬昭(しばしょう)が、かつて呉の寿春城(じゅしゅんじょう)を守っていて魏に降った、部将の徐紹(じょしょう)と孫彧(そんいく)を遣わしてくる。

司馬昭は、ふたりに託した手紙の中で時勢の成り行きを説き、魏に降伏するよう勧告してきた。

-265年(24歳)-
3月、光禄大夫(こうろくたいふ)の紀陟(きちょく)と五官中郎将(ごかんちゅうろうしょう)の弘璆(こうきゅう)らを魏へ遣わし、先に司馬昭から送られた手紙の返書を届ける。

このとき紀陟と弘璆は、魏の曹奐に帰国を許された徐紹と孫彧を伴って魏へ向かった。

しかし「もともと徐紹は呉の臣下なのに、中原(ちゅうげん。ここでは魏のこと)を称賛している」と上言した者がいたため、徐紹だけ濡須(じゅしゅ)まで行ったところで呼び戻した。

徐紹は処刑し、一家眷属(けんぞく)は建安(けんあん)への強制移住とした。

4月、蔣陵(しょうりょう。蔣山陵〈しょうざんりょう〉。孫権〈そんけん〉の陵)から「甘露(かんろ)が降った」との報告が届く。

これを受けて「元興」を「甘露」と改元したうえ、大赦を行う。

7月、昨年9月に位を貶した朱氏を死に追いやる。

さらに、孫休の4人の息子たちを呉郡の小城へ護送して閉じ込め、その後まもなく年長のふたりを殺害する。

9月、西陵督(せいりょうとく)の歩闡(ほせん)の建議に従い、建業(けんぎょう)から武昌(ぶしょう)へ遷都する。

その際、御史大夫(ぎょしたいふ)の丁固(ていこ)と右将軍(ゆうしょうぐん)の諸葛靚(しょかつせい)を建業に留め、その守りにあたらせた。

11月、魏へ遣わした紀陟と弘璆が帰国する。ふたりが魏の洛陽に着いたとき、たまたま司馬昭が亡くなったために帰ってきたもの。

11月、孫晧自身も武昌へ遷(うつ)り、再び大赦を行う。

11月、零陵郡(れいりょうぐん)の南部を始安郡(しあんぐん)とし、桂陽郡(けいようぐん)の南部を始興郡(しこうぐん)とする。

12月、晋の司馬炎が、魏の曹奐の禅譲を受けて新たな王朝を開く。

-266年(25歳)-
1月、大鴻臚(だいこうろ)の張儼(ちょうげん)と五官中郎将の丁忠(ていちゅう)を晋へ遣わし、司馬昭の死を弔問させる。この帰路で張儼が病死する。

帰国した丁沖から晋の弋陽(よくよう)を急襲するよう説かれたため、群臣に意見を求める。鎮西大将軍(ちんぜいだいしょうぐん)の陸凱(りくかい)は反対し、車騎将軍(しゃきしょうぐん)の劉纂(りゅうさん)は賛成した。

心中では劉纂の意見を採り上げたいと思ったが、蜀が平定されたばかりであることから実行に移さずにいるうち、そのまま沙汰やみとなった。

8月、各地から「大きな鼎(かなえ)が発見された」との報告が届く。

これを受けて「甘露」を「宝鼎(ほうてい)」と改元したうえ、大赦を行う。

8月、陸凱を左丞相(さじょうしょう)に、常侍(じょうじ)の万彧を右丞相(ゆうじょうしょう)に、それぞれ任ずる。

10月、山賊の施但(したん)らが永安(えいあん)で数千人の徒党を集める。施但らは、異母弟で永安侯の孫謙を強迫して烏程まで同行させた。

そして、孫和の陵に副葬されていた楽器や曲蓋(きょくがい。柄の曲がった貴人用の傘)を奪い取ったりした。

施但らが建業までやってきたとき、その徒党は1万余人にもなっていた。これを丁固と諸葛靚に迎え撃たせ、牛屯(ぎゅうとん)で激しい戦いになる。

施但らは敗走し、取り残された孫謙は保護されたものの、自殺してしまった。

10月、会稽郡を分割して東陽郡(とうようぐん)を、呉郡と丹楊郡(たんようぐん)を分割して呉興郡(ごこうぐん)を、それぞれ設置。また、零陵郡の北部を邵陵郡(しょうりょうぐん)とする。

12月、武昌から建業へ遷都。その際、衛将軍(えいしょうぐん)の滕牧を武昌に留め、旧都の守りにあたらせた。

-267年(26歳)-
春、大赦を行う。

?月、右丞相の万彧が長江(ちょうこう)をさかのぼり、巴丘(はきゅう)の守りに就く。

6月、顕明宮(けんめいきゅう。昭明宮〈しょうめいきゅう〉)を造営する。

7月、守大匠(しゅたいしょう。将作大匠〈しょうさくたいしょう〉代行)の薛珝(せつく)に命じ、孫和の霊廟(れいびょう)の正殿と奥殿を建立する。そして、この廟を清廟(せいびょう)と名付けた。

12月、顕明宮(昭明宮)へ遷り、その宮殿で起居を始める。

12月、守丞相(しゅじょうしょう。丞相代行)の孟仁(もうじん。孟宗〈もうそう〉)と太常(たいじょう)の姚信(ようしん)らを明陵へ遣わす。

官吏や近衛の歩騎2千人をそろえ、天子(てんし)の乗り物を用意させ、東方の明陵から孫和の魂を迎え、都(建業)に建立した清廟へ遷すことにしたもの。

この年、豫章・廬陵(ろりょう)・長沙(ちょうさ)の3郡からそれぞれ一部を分割し、安成郡(あんせいぐん)を設置した。

-268年(27歳)-
2月、左右の御史大夫の丁固と孟仁(孟宗)を、それぞれ司徒(しと)と司空(しくう)に任ずる。

9月、居巣(きょそう)の東関(とうかん)へ出撃し、丁奉にも合肥(ごうひ)まで軍勢を進めさせる。

この年、交州刺史(こうしゅうしし)の劉俊(りゅうしゅん)と前部督(ぜんぶとく)の脩則(しゅうそく)らを遣わし、晋の交趾に進攻させる。

しかし、晋の毛炅(もうけい)らに敗れてふたりとも戦死し、兵士は四散して合浦(ごうほ)へ逃げ帰った。

-269年(28歳)-
1月、孫瑾を皇太子に立てる。さらにほかの息子たちも、淮陽王(わいようおう)と東平王(とうへいおう)に、それぞれ封ずる。

10月、「宝鼎」を「建衡(けんこう)」と改元したうえ、大赦を行う。

11月、左丞相の陸凱が死去する。

11月、監軍(かんぐん)の虞汜(ぐし)、威南将軍(いなんしょうぐん)の薛珝、蒼梧太守(そうごたいしゅ)の陶璜(とうこう)らを遣わし、荊州(けいしゅう)から陸路を取らせる。

その一方、監軍の李勖(りきょく)と督軍(とくぐん)の徐存(じょそん)らには建安から海路を取らせ、両者に合浦で合流して晋の交趾を攻めるよう命ずる。

-270年(29歳)-
春、万彧が武昌から建業へ戻る。

?月、先に晋の交趾攻めに向かわせていた李勖が、建安を経由する道程が難渋したことから、道案内にあたった部将の馮斐(ふうひ)を殺害したうえ、軍勢をまとめて帰還する。

3月、雷が降り注ぎ、1万余戸が焼失して700人の死者が出る。

4月、左大司馬(さだいしば)の施績(朱績)が死去する。

この年、左夫人(さふじん)の王氏(おうし)が死去した。孫晧はその死をひどく悲しみ、数か月も姿を見せなかった。

呉の人々は「孫晧が死んでしまったのだ」とか、「孫奮か上虞侯(じょうぐこう)の孫奉(そんほう)が帝位に即くだろう」などとうわさした。

豫章太守(よしょうたいしゅ)の張俊(ちょうしゅん)はうわさを信じ、仲氏(ちゅうし。孫奮の母)の墓を掃除させた。

この話を聞いた孫晧は激怒し、張俊を車裂きにしたうえ、一族も皆殺しにした。さらに孫奮と5人の息子たちを誅殺して封国を廃した。

孫奮の没年はイマイチはっきりしなかった。本伝からは少なくとも274年まで、孫奮が章安侯(しょうあんこう)として存命であることがうかがえる。

この年、殿中列将(でんちゅうれっしょう)の何定(かてい)から上言があり、先に李勖が勝手に軍勢をひきいて帰還したことを指摘された。

これを受けて、李勖と徐存の一家眷族をみな誅殺した。

この年、何定が兵5千をひきいて長江をさかのぼり、夏口(かこう)で巻き狩りを行った。

この年、都督(ととく)の孫秀(そんしゅう)が晋へ逃亡した。

この年、大赦を行った。

-271年(30歳)-
1月、多くの者を引き連れて、建業西方の華里(かり)まで行幸する。

このとき母の何太后(かたいこう)や妃妾(きさき)も随行したが、東観令(とうかんれい)の華覈(かかく)らから必死に引き止められたため、都(建業)へ戻ることにした。

この年、虞汜と陶璜が晋の交趾を攻め破り、晋の部将を殺したり捕虜にした。九真(きゅうしん)・日南(にちなん)の両郡は再び呉に属することになる。

そのため大赦を行い、交趾郡を分割して新昌郡(しんしょうぐん)を設置した。

この年、配下の部将たちが扶厳(ふげん)を討ち破ったため、その地に武平郡(ぶへいぐん)を設置した。

この年、武昌督(ぶしょうとく)の范慎(はんしん)を太尉(たいい)に任じた。

この年、右大司馬の丁奉と司空の孟仁(孟宗)が死去した。

この年、西の御苑(ぎょえん)から「鳳凰(ほうおう)がやってきた」との報告が届く。

これを受けて、翌年から「建衡」を「鳳皇(鳳凰)」と改元することを決めた。

-272年(31歳)-
8月、西陵督の歩闡を召還しようとしたところ、歩闡が命令に従わず、城に立て籠もったまま晋に投降する。

そこで楽郷都督(らくきょうととく)の陸抗(りくこう)を遣わし、西陵を包囲して歩闡を捕らえさせた。

歩闡の配下にいた軍勢はみな降伏し、歩闡の企てに加わった数十人を一族皆殺しとした。この事件が解決した後、大赦を行った。

この年、右丞相の万彧を譴責(けんせき)したところ憂死する。その子弟は廬陵への強制移住とした。

この年、悪事が発覚した何定を誅殺する。その悪事が張布の時と似ていると感じたため、何定の死後、その名を何布(かふ)と改めさせた。

-273年(32歳)-
3月、陸抗を大司馬に任ずる。

3月、司徒の丁固が死去する。

9月、息子の淮陽王を魯王(ろおう)に、同じく東平王を斉王(せいおう)に、それぞれ移封する。

この際、陳留王(ちんりゅうおう)・章陵王(しょうりょうおう)など9人の息子を新たに王に封ずる。これで王は11人となり、3千ずつの兵を配置した。

この11人の王(孫晧の息子たち)については、みな名がわからない。

9月、大赦を行う。

この年、愛妾(あいしょう)のひとりに、市場へ人を遣って民の財貨を強奪させた者がいた。

司市中郎将(ししちゅうろうしょう)の陳声(ちんせい)は孫晧が特に目をかけている臣下だったが、この陳声が法によって処罰した。

孫晧は愛妾の訴えを聴いて激怒し、別件にかこつけて焼いた鋸(のこぎり)で陳声の首を切り落とさせ、遺骸を四望山(しぼうざん)のふもとへ捨てさせた。

この年、太尉の范慎が死去した。

-274年(33歳)-
?月、会稽郡で「章安侯の孫奮が天子になるだろう」との妖言が広まる。

臨海太守(りんかいたいしゅ)の奚熙(けいき)は、会稽太守の郭誕(かくたん)に書簡を送って国政を非難した。

郭誕は奚熙の(国政を非難した)書簡のことは上言したものの、(孫奮が天子になるだろうという)妖言については上言しなかった。

そのため郭誕を建安へ送って、船を造る労役に充てた。

一方、三郡督(さんぐんとく)の何植(かしょく)を遣わして奚熙を捕らえようとしたが、奚熙は兵を徴用して守りを固め、海路を遮断した。

だが、奚熙は子飼いの兵に殺害された。そこで奚熙の首を建業へ送らせ、その一族を皆殺しとした。

7月、25人の使者を各地に遣わし、その地に潜伏する逃亡者を摘発して都(建業)へ送るよう命ずる。

7月、大司馬の陸抗が死去する。

「建衡」を「鳳皇(鳳凰)」と改元(272年)してからこの年(274年)まで、疫病が大流行して絶えることがなかった。

この年、鬱林郡(うつりんぐん)を分割して桂林郡(けいりんぐん)を設置した。

-275年(34歳)-
この年、呉郡から「土中より長さ1尺(せき)、幅3寸の銀が掘り出され、それには年月などの文字が刻まれている」との報告が届く。

これを受けて大赦を行い、「鳳皇(鳳凰)」を「天冊(てんさく。天から賜った冊書)」と改元した。

-276年(35歳)-
?月、呉郡から「漢末(かんまつ)以来、雑草が生い茂り、通じなくなっていた臨平湖(りんぺいこ)の水路が再び通じた」との報告が届く。

土地の古老の言い伝えでは、「この湖がふさがれば天下は乱れ、通じれば天下は安定する」とのことだという。

また「湖の岸辺で石の函(はこ)が見つかり、中に小石が入っていた」との報告も届き、「その小石は青白い色をしていて、長さ4寸、幅2寸余り、そして『皇帝』と刻まれているようだ」とのことだった。

これを受けて「天冊」を「天璽(てんじ。天から賜った印璽)」と改元したうえ、大赦を行った。

?月、会稽太守の車浚(しゃしゅん)と湘東太守(しょうとうたいしゅ)の張詠(ちょうえい)が算緡(さんびん。所得税の一種。銭1千文、一緡を単位として課税する)を納めなかったため、役人を遣わして斬首に処す。その首は諸郡の間を引き回すよう命じた。

8月、京下督(けいかとく。京城の守備隊長)の孫楷(そんかい)が晋に投降する。

この年、鄱陽(はよう)から「歴陽(れきよう。歴陵〈れきりょう〉)の山中で石の脈理(すじめ)が文字の形をなしている」との報告が届く。

それらは全部で20字あり、「楚(そ)は九州の渚(しょ)にして、呉は九州の都。揚州(ようしゅう)の士が天子と作(な)り、四世にして治まり、太平な時代が始まる」と読めるという。

さらに「呉興の陽羨山(ようせんざん)にある石室と呼ばれる大岩の各所に、明らかな祥瑞(しょうずい)が表れている」との報告も届いた。

これを受けて、兼司徒(けんしと)の董朝(とうちょう)と兼太常(けんたいじょう)の周処(しゅうしょ)を陽羨へ遣わし、その地を国山(こくざん)として封禅(ほうぜん)の儀式を執り行った。

また、翌年(277年)から「天璽」を「天紀(てんき)」と改元することを決め、大赦も行った。これは、岩に表れた文字に対応しようとしたものだった。

-277年(36歳)-
夏、夏口督(かこうとく)の孫慎(そんしん)が、晋の江夏(こうか)から汝南へ進軍して焼き討ちをかけ、その地の民を略奪して帰る。

この年、悪事が発覚した司直中郎将(しちょくちゅうろうしょう)の張俶(ちょうしゅく)を誅殺した。

-278年(37歳)-
7月、息子ら11人を成紀王(せいきおう)や宣威王(せんいおう)などの王に封じ、王ごとに3千の兵を配置したうえ、大赦を行う。

273年9月の記事との兼ね合いがわかりにくかった。王の数が11人で変わっていないことから、新たに王に封じたというよりも、移封したという意味合いが強いのだろう。

-279年(38歳)-
夏、郭馬(かくば)が反乱を起こす。

郭馬は、もともと合浦太守の脩允(しゅういん)配下の私兵の隊長だった。脩允が死去すると、配下の兵士は別々の部署に配属されることになったが、郭馬たちは父祖以来ひとつの軍団をなしていたので、皆が離ればなれになることを望まなかった。

ちょうどこのころ、孫晧は広州(こうしゅう)の戸籍を正確に調べさせ、課税しようと考えていた。

郭馬は、私兵の部将だった何典(かてん)・王族(おうぞく)・呉述(ごじゅつ)・殷興(いんこう)らと共謀。孫晧の計画に乗じ、兵士や民の不安を煽(あお)って動揺させ、人数を集めて広州督(こうしゅうとく)の虞授(ぐじゅ)を攻め殺した。

郭馬は勝手に、都督交広二州諸軍事(ととくこうこうにしゅうしょぐんじ)・安南将軍(あんなんしょうぐん)と号し、殷興は広州刺史(こうしゅうしし)と、呉述は南海太守(なんかいたいしゅ)と、それぞれ号した。

何典は蒼梧郡へ兵を進め、王族は始興郡へ兵を進めた。

8月、軍師の張悌(ちょうてい)を丞相に、牛渚都督(ぎゅうしょととく)の何植を司徒に、それぞれ任ずる。

さらに執金吾(しつきんご)の滕循(とうじゅん)を司空に任ずることにしたが、その任命前に鎮南将軍(ちんなんしょうぐん)・仮節(かせつ)・領広州牧(りょうこうしゅうぼく)に職を改めた。

こうして滕循に1万の兵をひきいさせ、郭馬の討伐に向かわせた。

?月、滕循は、始興で王族の軍勢と遭遇したため先に進めなくなる。

そのうち郭馬は南海太守の劉略(りゅうりゃく)を殺害し、広州刺史の徐旗(じょき)を追い払った。

そこで孫晧は徐陵督(じょりょうとく)の陶濬(とうしゅん)を遣わし、7千の兵をひきいて西の道を取らせた。

また、交州牧(こうしゅうぼく)の陶璜(とうこう)には配下に加え、合浦や鬱林などの諸郡の兵をまとめてひきいるよう命じ、東西から向かった両軍に共同で郭馬を攻めさせた。

?月、工匠(こうしょう)の黄耇(こうこう)を侍芝郎(じしろう)に、同じく工匠の呉平(ごへい)を平虜郎(へいりょろう)に、それぞれ任じ、銀印青綬(せいじゅ)を授ける。

これは、黄耇の家に生えた鬼目菜(きもくさい)が芝草(しそう。霊芝〈レイシ〉)と、呉平の家に生えた買菜(ばいさい)が平虜草(へいりょそう。虜〈あだ〉を平らげる草)と、それぞれ鑑定されたことによるもの。

冬、晋の司馬炎が、鎮東将軍(ちんとうしょうぐん)の司馬伷(しばちゅう)に涂中(とちゅう)への進軍を命ずる。

また、安東将軍(あんとうしょうぐん)の王渾(おうこん)と揚州刺史(ようしゅうしし)の周浚(しゅうしゅん)には牛渚へ、建威将軍(けんいしょうぐん)の王戎(おうじゅう)には武昌へ、平南将軍(へいなんしょうぐん)の胡奮(こふん)には夏口へ、鎮南将軍の杜預(とよ)には江陵(こうりょう)へ、それぞれ進軍するように命じた。

杜預については、慣例として「どよ」と読まれるとのこと。

さらに、龍驤将軍(りょうじょうしょうぐん)の王濬と広武将軍(こうぶしょうぐん)の唐彬(とうひん)には、軍船をひきいて長江を東へ下るよう命じた。

この際、司馬炎は太尉の賈充(かじゅう)を大都督(だいととく)に任じ、全軍の取りまとめにあたらせた。

一方で呉の陶濬は、郭馬征伐のために武昌まで来たところだったが、北方の晋軍が大挙して押し寄せてきたと聞くと武昌に軍勢を留め、広州へは向かわなかった。

-280年(39歳)-
春、息子ら11人を中山王(ちゅうざんおう)や代王(だいおう)などの王に封じたうえ、大赦を行う。

ここでも、273年9月および278年7月の記事との兼ね合いがわかりにくかった。結局、孫晧は何人の息子を王に立てたのだろうか?

春、晋の王濬や唐彬の船団が攻め寄せたため、呉軍は雪崩を打って崩壊する。

また、晋の杜預に江陵督(こうりょうとく)の伍延(ごえん)が斬られ、晋の王渾には丞相の張悌と丹楊太守の沈瑩(しんえい)らが斬られるなど、呉軍は至るところで敗北を喫した。

3月(2月)、殿中の親近者ら数百人が叩頭(こうとう)し、岑昬(しんこん)を誅殺するよう乞うたため、これを容れる。

3月(2月)、陶濬が武昌から帰還する。

陶濬を引見した後、残った部隊をひとつにまとめ、陶濬に節(せつ。権限を示すしるし)と鉞(えつ。まさかり。軍権の象徴)を授ける。

陶濬の軍勢は翌日に出発する予定だったが、その夜のうちに兵士はみな逃亡した。

しかも晋の王濬のひきいる水軍は、長江の流れに乗って到着間近であり、司馬伷や王渾らの軍勢も都(建業)の近くまで迫っていた。

そのため光禄勲(こうろくくん)の薛瑩(せつえい)や中書令(ちゅうしょれい)の胡沖(こちゅう)らの意見を容れ、晋の王濬・司馬伷・王渾にそれぞれ使者を遣わし、降伏する意思を書簡で伝える。

3月(2月)、晋の王濬が先頭を切り、建業まで軍勢を進める。

孫晧は建業に入った王濬から降伏を認められ、降伏のしるしとして自らを縛っていた縄をほどいてもらい、用意していた柩(ひつぎ)を焼き、本陣に招かれて会見した。

晋の司馬伷は、孫晧が自分のもとに印綬(いんじゅ。官印と組み紐〈ひも〉)を差し出したことを理由に、自分の部下に孫晧を晋の都(洛陽)まで護送するよう命じた。

4月、晋の司馬炎から帰命侯に封ぜられる。

さらに生活の糧(かて)として、衣服と車馬、田地30頃(けい)を与えられたうえ、毎年、穀物5千石(せき)、銭50万、絹500匹、綿500斤の給付を受けることになった。

また、皇太子だった孫瑾は中郎(ちゅうろう)に任ぜられ、ほかの息子たちのうち、王に封ぜられていた者は郎中(ろうちゅう)に任ぜられた。

5月、一族とともに洛陽に到着。

-284年(43歳)-
この年、洛陽で死去した。

なお、本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く張勃(ちょうぼつ)の『呉録(ごろく)』では、孫晧の死を283年12月のこととしている。

管理人「かぶらがわ」より

濮陽興と張布が孫休の願いを聞き入れず、孫ワンではなく孫晧を帝位に迎えたことが呉の滅亡を招いたのか? それとも孫ワンが即位していても、結果は同じだったのか?

これは、おそらく後者だったのではないでしょうか。

孫晧が即位した時点で蜀は滅亡しており、どういう形であれ、魏(または晋)に併合されるのは時間の問題だったと思います。

ただ本伝にある、「孫晧の本性が粗暴かつ驕慢で、肝っ玉が小さくて執念深い」というのは納得できるものがあり、中でも肝っ玉が小さかったことが、数々の残虐なエピソードにつながっている気がします。

とはいえ、根っからの乱暴者というのではなく。君主でありながら他人(臣下や民)の反応が気になりすぎる性格だった、というところかなと……。

そして、他人の考えを敏感に感じ取るあまり、権力を振りかざし、必要以上に過酷な命令を下してしまう。何とも悲しい主従関係ですね。

こうした心理状態が続いたためか、呉の滅亡が近づくに従い、怪しげな予言や迷信にはまる姿も描かれていました。

「孫晧は君主の器ではなかった」で片づけられないですよね。気の毒な目に遭った人たちが多すぎますから。

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