陸凱(りくかい)

【姓名】 陸凱(りくかい) 【あざな】 敬風(けいふう)

【原籍】 呉郡(ごぐん)呉県(ごけん)

【生没】 198~269年(72歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第120回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・陸凱伝』あり。

孫晧(そんこう)を真正面から諫め続けた憂国の士

父母ともに不詳。陸胤(りくいん)は弟。陸禕(りくい)という息子がいた。陸遜(りくそん)とは同族。

黄武(こうぶ)年間(222~229年)の初め、陸凱は「永興県長(えいこうけんのちょう)」や「諸曁県長(しょきけんのちょう)」を務めて治績を上げた。のち「建武都尉(けんぶとい)」に任ぜられ兵士を預かる。彼は軍勢をひきいるようになっても書物を手放さず、『太玄経(たいげんきょう)』を愛好し占いをよくしたという。

赤烏(せきう)年間(238~251年)に陸凱は「儋耳太守(たんじのたいしゅ)」となり、朱崖(しゅがい)の不服従民の討伐で功を立て「建武校尉(けんぶこうい)」に昇進。

255年、陸凱は山越(さんえつ。江南〈こうなん〉に住んでいた異民族)の不服従民の陳ヒ(ちんひ。比+必)を零陵(れいりょう)で討ち取り、「偏将軍(へんしょうぐん)・巴丘督(はきゅうのとく)」に任ぜられ「都郷侯(ときょうこう)」に封ぜられた。のち「武昌右部督(ぶしょうのゆうぶとく)」に転ずる。

257年?、陸凱は諸将とともに寿春(じゅしゅん)の戦役に加わり、帰還後に「盪魏将軍(とうぎしょうぐん)」や「綏遠将軍(すいえんしょうぐん)」を務めた。

ここでいう「寿春の戦役」が255年の魏(ぎ)の毌丘倹(かんきゅうけん)と文欽(ぶんきん)がらみの件を指すのか、257年の魏の諸葛誕(しょかつたん)がらみの件を指すのかイマイチよくわからなかった。

翌258年、孫休(そんきゅう)が帝位を継ぐと、陸凱は「征北将軍(せいほくしょうぐん)・仮節(かせつ)」に任ぜられ「豫州牧(よしゅうのぼく)」を兼ねる。

264年、孫晧が帝位を継ぐと、陸凱は「鎮西大将軍(ちんぜいだいしょうぐん)・巴丘都督(はきゅうのととく)」に昇進し「荊州牧(けいしゅうのぼく)」を兼ね、「嘉興侯(かこうこう)」に爵位が進む。

266年、晋(しん)への使いから帰った五官中郎将(ごかんちゅうろうしょう)の丁忠(ていちゅう)が、孫晧に弋陽(よくよう)を急襲するよう勧める。

車騎将軍(しゃきしょうぐん)の劉纂(りゅうさん)は賛成したが、陸凱は反対。孫晧は劉纂の意見を採り上げたいと思ったものの、実行に移さずにいるうち沙汰やみとなった。

同年8月、陸凱は「左丞相(さじょうしょう)」に昇進。

先の265年、孫晧は建業(けんぎょう)から武昌へ遷都したが、揚州(ようしゅう)の人々は長江(ちょうこう)をさかのぼって物資を運ばなくてはならなくなり、その負担増に苦しむ。

加えて孫晧の政策は実情に合わないものが多かったため、民の暮らしは非常に厳しいものだった。陸凱は長文の上疏を奉り、憚(はばか)ることなく孫晧を諫めた。

また陸凱は、孫晧に取り入り権力をほしいままにしていた何定(かてい)を面詰し恨みを買ったが、報復を恐れずひたすら実情を訴え続けた。

265年9月に建業から武昌への遷都が実施されたが、翌266年12月には再び建業への遷都が実施されている。

269年、陸凱が病を得ると孫晧は中書令(ちゅうしょれい)の董朝(とうちょう)を遣わし、何か言い残したことがないか尋ねさせる。

陸凱は上陳し、何定に国の大事を委ねてはならないと改めて戒め、奚熙(けいき)が浦里(ほり)に水田を開きたがっているのを許可しないよう求めたうえ、姚信(ようしん)・楼玄(ろうげん)・賀邵(がしょう)・張悌(ちょうてい)・郭逴(かくたく)・薛瑩(せつえい)・滕脩(とうしゅう)、それに族弟(いとこ。一族の同世代の年少者)の陸喜(りくき)や陸抗(りくこう)の名を挙げて推薦した。

ほどなく陸凱は死去したが、このとき72歳だったという。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると、孫晧は人から見つめられることを嫌ったため、群臣の誰も孫晧を見返したりしなかったそうです。

そこで陸凱が孫晧を説いて言います。

「君臣が互いの顔を知らないという法はございません。これでは不慮の事態が起きましても、どこへ駆けつけたらよいかわからないことになります」

これを聞き、孫晧は陸凱が自分のほうを見ることを許したのだとか。孫晧の心理的な不安定さがうかがえる記事だと思います。

また本伝では、ある者の話として、266年12月にあったという孫晧の暗殺計画について採り上げていました。

これは陸凱が大司馬(だいしば)の丁奉(ていほう)や御史大夫(ぎょしたいふ)の丁固(ていこ)と計り、孫晧が廟(びょう)に詣でる機会を捉え、彼を廃して孫休の息子を帝位に即けようとしたもの。

このとき左将軍(さしょうぐん)の留平(りゅうへい)が兵士をひきい儀仗(ぎじょう)の先導役を務めることになっていたので、この計画をひそかに伝えます。

留平は計画への協力を拒みましたが、聞いた話は誰にも漏らさないと誓いました。結局、留平の協力が得られなかったことから、計画は実行されないまま終わったのだと。

さらに太史郎(たいしろう)の陳苗(ちんびょう)が上奏し、ずっと曇ったまま雨が降らず、風向きが目まぐるしく変わっているのは、陰謀が企てられているためだと述べたところ、孫晧は不安を感じて警戒を強めたのだとも。

こうした動きは、語られていないものも含めてかなりの数があったのでしょうね。

そして伝末には、陸凱が20項目にわたり孫晧を孫権(そんけん)と比較したうえ、孫晧のダメっぷりを指摘する非常に長い上表文も載せられていましたが、あまりに内容が激しすぎるため、陳寿(ちんじゅ)も本当に孫晧に奉呈されたものなのか判断に迷いながら、文章自体は後世の戒めとするに足ると考え、あえて本伝の後に載せたとのことでした。

呉の帝位は孫権から孫亮(そんりょう)と孫休を経て孫晧へ引き継がれましたが、あらかじめ決まっていたところに引き寄せられている印象すら受け、歴史の不思議を感じます。

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