-265年- 乙酉(いつゆう)
【晋】 泰始(たいし)元年 ※武帝(司馬炎〈しばえん〉)
【魏】 咸熙(かんき)2年 ※元帝(曹奐〈そうかん〉) → 晋に禅譲し滅亡
【呉】 (元興〈げんこう〉2年) → 甘露(かんろ)元年 ※帰命侯(孫晧〈そんこう〉)
月別および季節別の主な出来事
【02月】
甲辰(こうしん)の日(19日)
魏の曹奐に、胊䏰県(くじんけん)で捕獲された神秘的な亀が献上される。曹奐は、この亀を相国府に収めさせた。
『三国志』(魏書・陳留王紀)
【02月】
庚戌(こうじゅつ)の日(25日)
魏の曹奐が、かつて鍾会(しょうかい)が反乱を起こした際、成都の諸陣営に鍾会の反逆を知らせて回り、命を落とすことになった虎賁(こほん)の張脩(ちょうしゅう)について触れ、その弟の張倚(ちょうい)を関内侯に取り立てる。
『三国志』(魏書・陳留王紀)
【03月】
呉の孫晧が、光禄大夫の紀陟(きちょく)と五官中郎将の弘璆(こうきゅう)らを魏へ遣わし、先(264年)に魏の司馬昭(しばしょう)から送られた手紙の返書を届けさせる。
このとき紀陟と弘璆は、魏の使者として来ていた徐紹(じょしょう)と孫彧(そんいく)を伴い、魏へ向かった。
しかし徐紹だけは、濡須(じゅしゅ)まで行ったところで呼び戻され、孫晧によって処刑されたうえ、一家眷属(けんぞく)は建安へ強制移住させられた。「もともと呉の臣下である徐紹が、中原(ここでは魏のこと)を称賛している」と、孫晧に言上した者がいたためである。
『三国志』(呉書・孫晧伝)
★『江表伝』…このとき孫晧が届けさせた返書の様式について。
★『呉録』…紀陟と弘璆について。
★『晋紀』…紀陟と弘璆の洛陽における振る舞いについて。
⇒04月
呉の孫晧が、紀陟と弘璆を魏に遣わして和親を求める。
『三国志』(魏書・陳留王紀)
【04月】
魏の曹奐のもとに、「南深沢県で甘露が降った」との報告が届く。
『三国志』(魏書・陳留王紀)
【04月】「呉の改元」
呉の孫晧のもとに、「蔣陵(蔣山陵。孫権〈そんけん〉の陵)で甘露が降った」との報告が届く。そこで孫晧は、「元興」を「甘露」と改元したうえ、大赦を行った。
『三国志』(呉書・孫晧伝)
【05月】
魏の曹奐が詔を下し、呉の孫晧から献上された品々を、相国・晋王の司馬昭に届けさせようとする。しかし、司馬昭が固辞したため沙汰やみになった。
『三国志』(魏書・陳留王紀)
【05月】
魏の曹奐が詔を下し、相国・晋王の司馬昭に、「冠に12の玉飾りを付けること」「天子の旗を立て、出入りの際に先払いの役を配置し、ほかの者を通行禁止とすること」「金根車に乗り、これを6頭立ての馬に引かせ、五時車(5色ある季節の色を塗った車)を副車(そえぐるま)として備えること」「旄頭(ぼうとう)と雲罕(うんかん)を備えること」「八佾(はちいつ。天子の舞楽。8人が8列になって舞う)の舞楽を演ずること」「宮殿に鐘を吊るす台を設置すること」を許す。
また、晋国の王妃を王后に、世子を王太子に、それぞれ昇格させ、王子・王女・王孫の爵号を旧例に従って改めさせた。
『三国志』(魏書・陳留王紀)
【05月】
癸未(きび)の日(30日)
魏の曹奐が大赦を行う。
『三国志』(魏書・陳留王紀)
【07月】「朱皇后(しゅこうごう)の崩御」
呉の孫晧が、先に皇太后から景后(景皇后)に位を貶(おと)した朱氏を死に追いやる。さらに孫休(そんきゅう)の4人の息子たちを呉郡の小城へ閉じ込めたうえ、その後まもなく年長のふたりを殺害した。
『三国志』(呉書・孫晧伝)
★ここで孫晧が殺害したのは、年長のふたりとだけあった。『三国志』(呉書・孫休伝)および(呉書・孫晧伝)の記事から、豫章王に封ぜられていた孫ワン(そんわん。雨+單)と汝南王に封ぜられていた孫コウ(そんこう。雷+大)のふたりだと思われる。
【08月】「司馬昭の死」
辛卯(しんぼう)の日(9日)
魏の相国・晋王の司馬昭が薨去(こうきょ)する。
『三国志』(魏書・陳留王紀)
【08月】「晋王司馬炎」
壬辰(じんしん)の日(10日)
魏の司馬炎が、父の官職と領地を受け継ぎ、政治万端を取り仕切る。司馬炎の調度や礼式についても、司馬昭の待遇と同じとされた。
『三国志』(魏書・陳留王紀)
【08月】
魏の曹奐のもとに、「襄武県で3丈余りもある巨人が現れた」との報告が届く。
この巨人は、足跡が3尺(せき)2寸もあった。白髪で黄色の単衣(ひとえ)を身に着けており、黄色の頭巾をかぶり、杖に寄りかかっていた。巨人は王始(おうし)という平民に声をかけ、「今に呉が平定され、太平になるぞ」と言ったともある。
『三国志』(魏書・陳留王紀)
【09月】
乙未(いつび)の日(?日)
魏の曹奐が、再び大赦を行う。
『三国志』(魏書・陳留王紀)
★『正史 三国志1』(今鷹真〈いまたか・まこと〉、井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま学芸文庫)の訳者注によると、「ここは乙卯(いつぼう)の日(4日)の誤りか」という。
【09月】
戊午(ぼご)の日(7日)
魏の司徒の何曾(かそう)が、晋の丞相に任ぜられる。
『三国志』(魏書・陳留王紀)
【09月】
癸亥(きがい)の日(12日)
魏の曹奐が、驃騎将軍の司馬望(しばぼう)を司徒に、征東大将軍の石苞(せきほう)を驃騎将軍に、征南大将軍の陳騫(ちんけん)を車騎将軍に、それぞれ任ずる。
『三国志』(魏書・陳留王紀)
【09月】
乙亥(いつがい)の日(24日)
魏の曹奐が、司馬昭の葬儀を執り行う。
『三国志』(魏書・陳留王紀)
★司馬昭の葬儀を執り行った人物は、曹奐としたほうがいいのか、それとも司馬炎としたほうがいいのか? 普通に考えれば息子の司馬炎でいいはずだが、本紀に記すくらいだから国葬扱いなのだろうし――。ここはよくわからなかった。
【09月】「呉の遷都」
呉の孫晧が、西陵督の歩闡(ほせん)の建議に従い、建業から武昌へ遷都する。
その際、御史大夫の丁固(ていこ)と右将軍の諸葛靚(しょかつせい)が、旧都の建業に留まって守りにあたった。
『三国志』(呉書・孫晧伝)
【11月】
呉の孫晧が魏へ遣わしていた、紀陟と弘璆が帰国する。ふたりが魏の洛陽に着いたとき、たまたま司馬昭が亡くなったため、すぐに戻ってきたもの。
『三国志』(呉書・孫晧伝)
【11月】
呉の孫晧が武昌に遷(うつ)り、再び大赦を行う。
『三国志』(呉書・孫晧伝)
【11月】
呉の孫晧が、零陵郡の南部を始安郡とし、桂陽郡の南部を始興郡とする。
『三国志』(呉書・孫晧伝)
【閏11月】
庚辰(こうしん)の日(?日)
魏の曹奐に、康居と大宛から名馬が献上される。曹奐は、献上された馬を相国府に届けさせたうえ、すべての国々をなつけ、遠方からの使者を招き寄せた司馬炎の勲功を顕彰した。
『三国志』(魏書・陳留王紀)
【12月】「曹奐の禅譲と魏の滅亡」
壬戌(じんじゅつ)の日(13日)
魏の曹奐が百官に詔を下し、晋王の司馬炎に帝位を譲る。その際の礼式は、漢・魏の交代の例に倣った。
甲子(こうし)の日(15日)
魏の曹奐が、晋王の司馬炎に使者を遣わし、策(命令を書き付ける札)を捧げ持たせる。
こうして曹奐は金墉城(きんようじょう)に移ることになったが、のち鄴に屋敷を構えた。禅譲したとき20歳だった。
『三国志』(魏書・陳留王紀)
★『魏世譜』…司馬炎は、曹奐を陳留王に封じた。曹奐は、晋の大安(たいあん)元(302)年に58歳で薨去した。その諡(おくりな)を元皇帝という。
★ここでは(原文にも)大安とあったが、太安としたほうがいいのか?
⇒12月
晋の司馬炎が、魏の曹奐の禅譲を受け、新たな王朝を開く。
『三国志』(呉書・孫晧伝)
⇒12月
晋の司馬炎が帝位に即き、「咸熙」を「泰始」と改元する。これが晋(西晋)の武帝。司馬炎は景初暦(けいしょれき)も改め、太始暦(たいしれき。泰始暦)を用いた。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表
特記事項
「この年(265年)に亡くなったとされる人物」
朱氏(しゅし)C ※孫休(そんきゅう)の妻・孫コウ(そんこう。雷+大)・孫ワン(そんわん。雨+單)
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