188年(漢の中平5年)の主な出来事

-188年- 戊辰(ぼしん)
【漢】 中平(ちゅうへい)5年 ※霊帝(れいてい。劉宏〈りゅうこう〉)

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月別および季節別の主な出来事

【01月】
休屠各(きゅうとかく)の胡(こ)が西河郡(せいかぐん)に侵攻し、西河太守(せいかたいしゅ)の邢紀(けいき)を殺害する。
『後漢書(ごかんじょ)』(霊帝紀〈れいていぎ〉)

【01月】
丁酉(ていゆう)の日(15日)
霊帝が大赦を行う。
『後漢書』(霊帝紀)

【02月】
彗星(すいせい)が紫宮(しきゅう)に現れる。
『後漢書』(霊帝紀)

【02月】
黄巾賊(こうきんぞく)の残党の郭太(かくたい。郭泰)らが、西河郡の白波谷(はくはこく)で蜂起し、太原(たいげん)・河東(かとう)の両郡に侵攻する。
『後漢書』(霊帝紀)

【03月】
休屠各の胡が幷州刺史(へいしゅうしし)の張懿(ちょうい)を攻め、これを殺害する。さらに休屠各の胡は、南匈奴(なんきょうど)の左部の胡と結び、その単于(ぜんう)も殺害した。
『後漢書』(霊帝紀)

【04月】
汝南郡(じょなんぐん)の葛陂(かつひ)の黄巾賊が郡県に侵攻し、これを攻め落とす。
『後漢書』(霊帝紀)

【04月】
霊帝が、太尉(たいい)の曹嵩(そうすう)を罷免する。
『後漢書』(霊帝紀)

【05月】
霊帝が、永楽少府(えいらくしょうふ)の樊陵(はんりょう)を太尉に任ずる。
『後漢書』(霊帝紀)

【06月】
丙寅(へいいん)の日(16日)
大風が吹く。
『後漢書』(霊帝紀)

ここでは具体的な場所についての記述はなかった。

【06月】
霊帝が、太尉の樊陵を罷免する。
『後漢書』(霊帝紀)

【06月】
益州郡(えきしゅうぐん)の黄巾賊の馬相(ばしょう)が、益州刺史(えきしゅうしし)の郗倹(ちけん)を攻めて殺害し、天子(てんし)を自称する。

さらに馬相は巴郡(はぐん)に侵攻し、巴郡太守の趙部(ちょうぶ)も殺害した。益州従事(えきしゅうじゅうじ)の賈龍(かりょう)が馬相の討伐にあたり、これを斬った。
『後漢書』(霊帝紀)

『全譯後漢書 第2冊』(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉、岡本秀夫〈おかもと・ひでお〉、池田雅典〈いけだ・まさのり〉編 汲古書院)の補注によると、「馬相は益州の黄巾。『華陽国志(かようこくし)』(公孫述二牧志〈こうそんじゅつにぼくし〉)は涼州(りょうしゅう)の黄巾とする。自ら天子と称したが、益州従事の賈龍によって平定された」という。

同じく『全譯後漢書 第2冊』の補注によると「郗倹は益州刺史。『三国志』(劉焉伝〈りゅうえんでん〉)では郤倹(げきけん)に作る。馬相によって殺害された」という。

同じく『全譯後漢書 第2冊』の補注は「益州従事が益州の属吏のひとつ」だと指摘したうえ、「州郡の属吏には、その地方の豪族が就任していることが多く、一属吏にすぎなかった賈龍による馬相の平定は、彼ら地方豪族の勢力の強さを垣間見させる」という。

【06月】
郡国の7か所で大水があった。
『後漢書』(霊帝紀)

ここでは具体的な場所についての記述はなかった。

【07月】
霊帝が、射声校尉(しゃせいこうい)の馬日磾(ばじってい)を太尉に任ずる。
『後漢書』(霊帝紀)

【08月】
霊帝が、初めて西園八校尉(せいえんはちこうい)の官を設置する。
『後漢書』(霊帝紀)

李賢注(りけんちゅう)によると「楽資(がくし)の『山陽公載記(さんようこうさいき)』に、『(このとき)小黄門(しょうこうもん)の蹇碩(けんせき)を上軍校尉(じょうぐんこうい)とし、虎賁中郎将(こほんちゅうろうしょう)の袁紹(えんしょう)を中軍校尉(ちゅうぐんこうい)とし、屯騎校尉(とんきこうい)の鮑鴻(ほうこう)を下軍校尉(かぐんこうい)とし、議郎(ぎろう)の曹操(そうそう)を典軍校尉(てんぐんこうい)とし、趙融(ちょうゆう)を助軍左校尉(じょぐんさこうい)とし、馮芳(ふうほう)を助軍右校尉(じょぐんゆうこうい)とし、諫議大夫(かんぎたいふ)の夏牟(かぼう)を左校尉(さこうい)とし、淳于瓊(じゅんうけい)を右校尉(ゆうこうい)とした。全部で八校尉、みな蹇碩の統率下に置かれた』とある」という。

『全譯後漢書 第2冊』の補注によると「西園八校尉は、中蔵府(ちゅうぞうふ)の銭穀と西園の厩馬(きゅうば)によって経営される、霊帝直属の常備軍である」という。

【08月】
霊帝が、司徒(しと)の許相(きょしょう)を罷免したうえ、司空(しくう)の丁宮(ていきゅう)を司徒に、光禄勲(こうろくくん)の劉弘(りゅうこう)を司空に、衛尉(えいい)の董重(とうちょう)を驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)に、それぞれ任ずる。
『後漢書』(霊帝紀)

⇒?月
霊帝が、董皇后の兄の子である衛尉・脩侯(しゅうこう)の董重を驃騎将軍に任じ、1千余人の兵をひきいさせた。
『後漢書』(董皇后紀〈とうこうごうぎ〉)

脩侯について、ルビは「ちょうこう」とするか「しゅうこう」とするか迷ったが、このサイトでは別の記事との兼ね合いを考え、「しゅうこう」としておく。

【09月】
匈奴の南単于(なんぜんう)が反乱を起こし、白波の賊とともに河東郡に侵攻する。
『後漢書』(霊帝紀)

【09月】
霊帝が、中郎将の孟益(もうえき)を遣わし、騎都尉(きとい)の公孫瓚(こうそんさん)をひきいて、漁陽郡(ぎょようぐん)の賊である張純(ちょうじゅん)らの討伐を命ずる。
『後漢書』(霊帝紀)

【10月】
青州(せいしゅう)・徐州(じょしゅう)の両州の黄巾賊が再び蜂起し、郡県に侵攻する。
『後漢書』(霊帝紀)

【10月】
霊帝が自ら無上将軍(むじょうしょうぐん)と称し、平楽観(へいらくかん)において兵威を輝かせる。
『後漢書』(霊帝紀)

李賢注によると「平楽観は洛陽城(らくようじょう)の西にある」という。

『全譯後漢書 第2冊』の補注によると「無上将軍は雑号将軍号(ざつごうしょうぐんごう)。後漢(ごかん)初期に涿郡太守(たくぐんたいしゅ)の張豊(ちょうほう)、あるいは江淮(こうわい)の賊である徐鳳(じょほう)が名乗ったことのある将軍号で、本来は皇帝が称するべき号ではない」という。

【11月】
涼州の賊の王国(おうこく)が陳倉(ちんそう)を包囲したため、右将軍(ゆうしょうぐん)の皇甫嵩(こうほすう)が救援に向かう。
『後漢書』(霊帝紀)

【11月】
霊帝が、下軍校尉の鮑鴻を遣わし、葛陂の黄巾賊の討伐を命ずる。
『後漢書』(霊帝紀)

【11月】
巴郡の板楯蛮(はんじゅんばん)が反乱を起こす。霊帝は、上軍別部司馬(じょうぐんべつぶしば)の趙瑾(ちょうきん)を遣わして討伐にあたらせ、これを平定した。
『後漢書』(霊帝紀)

【11月】
公孫瓚が、石門山(せきもんざん)で張純と戦い、これを大破する。
『後漢書』(霊帝紀)

李賢注によると「このとき烏桓(うがん)は反乱を起こし、賊の張純らとともに薊中(けいちゅう)を攻めていた。そのため公孫瓚はこれを追撃した」という。

【?月】「牧(ぼく)の設置」
この年、霊帝が、刺史を改めて牧を設置した。
『後漢書』(霊帝紀)

⇒?月
この年、霊帝が、刺史を州牧に改めたうえ、劉焉を益州牧(えきしゅうぼく)に、黄琬(こうえん)を豫州牧(よしゅうぼく)に、劉虞(りゅうぐ)を幽州牧(ゆうしゅうぼく)に、それぞれ任じた。
『三国志全人名事典』(『中国の思想』刊行委員会編著 徳間書店)の関連略年表

【?月】
この年、霊帝が、(漢陽郡〈かんようぐん〉を)分割して南安郡(なんあんぐん)を設置した。
『後漢書』(郡国志〈ぐんこくし〉)の劉昭注(りゅうしょうちゅう)に引く『秦州記(しんしゅうき)』

【?月】
この年、王芬(おうふん)らが霊帝の廃立を企んだものの、実行には至らなかった。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 光人社)の『三国志』年表

特記事項

「この年(188年)に生まれたとされる人物」
宗預(そうよ)孫韶(そんしょう)陸績(りくせき)

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