243年(魏の正始4年・蜀の延熙6年・呉の赤烏6年)の主な出来事

-243年- 癸亥(きがい)
【魏】 正始(せいし)4年 ※少帝(しょうてい。曹芳〈そうほう〉)
【蜀】 延熙(えんき)6年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉)
【呉】 赤烏(せきう)6年 ※大帝(たいてい。孫権〈そんけん〉)

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月別および季節別の主な出来事

【01月】
魏(ぎ)の曹芳が元服し、臣下らにそれぞれ格差をつけて品物を下賜する。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・斉王紀〈せいおうぎ〉)

【01月】
呉(ご)の孫権のもとに、「新都郡(しんとぐん)で白虎が現れた」との報告が届く。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉)

【04月】
乙卯(いつぼう)の日(24日)
魏の曹芳が、甄氏(しんし)を皇后に立てたうえ、大赦を行う。
『三国志』(魏書・斉王紀)

【05月】
壬戌(じんじゅつ)の日(1日)、朔(さく)
皆既日食が起こる。
『三国志』(魏書・斉王紀)

ここは干支(かんし)を補っておく。

【07月】
魏の曹芳が詔(みことのり)を下し、以下の20人を、太祖(たいそ。曹操〈そうそう〉)の霊廟(れいびょう)の堂前の広場に祭る。

大司馬(だいしば)の曹真(そうしん)と曹休(そうきゅう)
征南大将軍(せいなんだいしょうぐん)の夏侯尚(かこうしょう)
太常(たいじょう)の桓階(かんかい)
司空(しくう)の陳羣(ちんぐん)
太傅(たいふ)の鍾繇(しょうよう)
車騎将軍(しゃきしょうぐん)の張郃(ちょうこう)
左将軍(さしょうぐん)の徐晃(じょこう)
前将軍(ぜんしょうぐん)の張遼(ちょうりょう)
右将軍(ゆうしょうぐん)の楽進(がくしん)
太尉(たいい)の華歆(かきん)
司徒(しと)の王朗(おうろう)
驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)の曹洪(そうこう)
征西将軍(せいせいしょうぐん)の夏侯淵(かこうえん)
後将軍(こうしょうぐん)の朱霊(しゅれい)と文聘(ぶんぺい)
執金吾(しつきんご)の臧霸(そうは)
破虜将軍(はりょしょうぐん)の李典(りてん)
立義将軍(りつぎしょうぐん)の龐徳(ほうとく)
武猛校尉(ぶもうこうい)の典韋(てんい)
『三国志』(魏書・斉王紀)

【10月】
蜀(しょく)の大司馬の蔣琬(しょうえん)が、漢中(かんちゅう)からの帰途に就き、涪(ふう)に留まる。
『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・後主伝〈こうしゅでん〉)

⇒?月
蜀の蔣琬の病が重くなる。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

【11月】
蜀の劉禅が大赦を行う。また、尚書令(しょうしょれい)の費禕(ひい)を大将軍(だいしょうぐん)に任ずる。
『三国志』(蜀書・後主伝)

⇒11月
蜀の劉禅が、費禕を大将軍・録尚書事(ろくしょうしょじ)に任ずる。
『正史 三国志8』の年表

【11月】「顧雍(こよう)の死」
呉の丞相(じょうしょう)の顧雍が死去する。
『三国志』(呉書・呉主伝)

【12月】「倭国(わこく)の使者」
倭国の女王である俾弥呼(ひみこ。卑弥呼)の使者が魏に到着し、献上品を捧げる。
『三国志』(魏書・斉王紀)

⇒?月
この年、倭王(卑弥呼)が大夫(たいふ)の伊声耆(いせいぎ)や掖邪狗(えきやく)ら8名を遣わし、魏に献上品を捧げる。掖邪狗らは、みな率善中郎将(そつぜんちゅうろうしょう)の印綬(いんじゅ。官印と組み紐〈ひも〉)を賜った。
『三国志』(魏書・東夷伝〈とういでん〉)

⇒?月
この年、倭王(卑弥呼)が、大夫の伊声耆や掖邪狗ら8名を遣わし、魏に献上品を捧げた。
『日本書紀(にほんしょき)』(神功皇后紀〈じんぐうこうごうぎ〉)の注

【12月】
扶南王(ふなんおう。カンボジア)の范旃(はんせん)が呉に使者を遣わし、楽人(がくじん)と扶南の特産品を献上する。
『三国志』(呉書・呉主伝)

【?月】
この年、呉の諸葛恪(しょかつかく)が魏の六安(りくあん)に軍を進め、謝順(しゃじゅん)の軍営を討ち破り、その地の民を捕虜にした。
『三国志』(呉書・呉主伝)

【?月】
この年、魏の司馬懿(しばい)が、軍をひきいて舒(じょ)に進む。その先鋒を避けるため、呉の諸葛恪は、皖(かん)から柴桑(さいそう)に軍を移した。
『三国志』(呉書・呉主伝)

特記事項

「この年(243年)に亡くなったとされる人物」
闞沢(かんたく)胡綜(こそう)顧雍(こよう)薛綜(せつそう)孫承(そんしょう)

「この年(243年)に生まれたとされる人物」
孫亮(そんりょう)

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