242年(魏の正始3年・蜀の延熙5年・呉の赤烏5年)の主な出来事

-242年- 壬戌(じんじゅつ)
【魏】 正始(せいし)3年 ※少帝(しょうてい。曹芳〈そうほう〉)
【蜀】 延熙(えんき)5年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉)
【呉】 赤烏(せきう)5年 ※大帝(たいてい。孫権〈そんけん〉)

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月別および季節別の主な出来事

【01月】
魏(ぎ)の東平王(とうへいおう)の曹徽(そうき)が薨去(こうきょ)する。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・斉王紀〈せいおうぎ〉)

【01月】
蜀(しょく)の監軍(かんぐん)の姜維(きょうい)が一軍をひきいて漢中(かんちゅう)から涪県(ふうけん)に戻り、その地に駐屯する。
『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・後主伝〈こうしゅでん〉)

【01月】
呉(ご)の孫権が息子の孫和(そんか)を皇太子(こうたいし)に立て、併せて大赦を行う。また、禾興(かこう)を嘉興(かこう)と改めた。

呉の群臣が、孫権の妃を皇后(こうごう)に、4人の息子たちを王に、それぞれ立てるよう乞う。しかし、孫権は詔(みことのり)を下して許可しない旨を伝え、「この建議はなかったことにするように」と述べた。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉)

禾興の改名について、『正史 三国志6』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の訳者注によると「禾興の禾の字が孫和の和と同音だったことから、それを避けたもの」だという。

【03月】「満寵(まんちょう)の死」
魏の太尉(たいい)の満寵が死去する。
『三国志』(魏書・斉王紀)

【03月】
呉の孫権のもとに「海塩県(かいえんけん)で黄色い龍が現れた」との報告が届く。
『三国志』(呉書・呉主伝)

【04月】
呉の孫権が珍貴な品を献上することを禁じ、太官(たいかん。宮中の飲食を担当)がつかさどる膳部(ぜんぶ)を簡素なものにさせる。
『三国志』(呉書・呉主伝)

【07月】
甲申(こうしん)の日(18日)
魏の南安郡(なんあんぐん)で地震が起こる。
『三国志』(魏書・斉王紀)

【07月】
乙酉(いつゆう)の日(19日)
魏の曹芳が領軍将軍(りょうぐんしょうぐん)の蔣済(しょうせい)を太尉に任ずる。
『三国志』(魏書・斉王紀)

【07月】
呉の孫権が将軍の聶友(じょうゆう)と校尉(こうい)の陸凱(りくかい)を遣わし、3万の兵で珠崖(しゅがい)と儋耳(たんじ)を討伐させる。
『三国志』(呉書・呉主伝)

【08月】
呉の孫権が息子の孫霸(そんは)を魯王(ろおう)に封ずる。担当官吏が孫権に重ねて上奏し、皇后と諸王を立てるよう乞うたことに応えたもの。
『三国志』(呉書・呉主伝)

【09月】「曹髦(そうぼう)の誕生」
辛未(しんび)の日(1日)、乙未(いつび)の日(25日)
魏の曹髦が誕生する。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀〈こうききょうこうぎ〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)

『正史 三国志1』(今鷹真〈いまたか・まこと〉、井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま学芸文庫)の訳者注によると「ここでふたつの日付が記してある意味は不詳」だという。

また、同じく『正史 三国志1』の訳者注によると「銭大昕(せんたいきん)と潘眉(はんび)は正始3(242)年を正始2(241)年の誤りだとしている。正始2年の9月1日は辛未の日にあたり、曹髦の没年からいうと正始2年の誕生でなくてはならないというのである」ともいう。

上の説だと干支(かんし)も合ってくるので、曹髦はこの年ではなく前年の生まれだと思われる。

【12月】
魏の魏郡で地震が起こる。
『三国志』(魏書・斉王紀)

【?月】
この年、呉でひどい疫病が流行した。
『三国志』(呉書・呉主伝)

「この年(242年)に亡くなったとされる人物」
曹徽(そうき)満寵(まんちょう)姚伷(ようちゅう)

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正史年表 240年代
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今日も三国志日和 – 史実と創作からみる三国志の世界 –

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