-229年- 己酉(きゆう)
【魏】 太和(たいわ)3年 ※明帝(曹叡〈そうえい〉)
【蜀】 建興(けんこう)7年 ※後主(劉禅〈りゅうぜん〉)
【呉】 (黄武〈こうぶ〉8年) → 黄龍(こうりょう)元年 ※大帝(孫権〈そんけん〉)
月別および季節別の主な出来事
【春】「諸葛亮(しょかつりょう)の第三次北伐」
蜀の諸葛亮が陳式(ちんしょく)を遣わし、魏の武都・陰平の両郡を攻め落とす。
『三国志』(蜀書・後主伝)
【春】
呉の公卿や百官がそろって孫権に、「正式に皇帝を称されますように」と勧進する。
『三国志』(呉書・呉主伝)
【04月】
魏の元城王の曹礼(そうれい)が薨去(こうきょ)する。
『三国志』(魏書・明帝紀)
【04月】
呉の孫権のもとに、「夏口と武昌で黄龍と鳳凰が現れた」との報告が届く。
『三国志』(呉書・呉主伝)
【04月】「孫権の即位と呉の改元」
丙申(へいしん)の日(13日)
呉の孫権が、都の武昌の南郊で帝位に即く。この日、孫権は大赦を行い、「黄武」を「黄龍」と改元した。
さらに、父で破虜将軍の孫堅(そんけん)を追尊して武烈皇帝の諡号(しごう)を贈り、生母の呉氏(ごし)には武烈皇后の諡号を、兄で討逆将軍の孫策(そんさく)には長沙桓王の諡号を、それぞれ贈った。
そして、呉の王太子だった孫登(そんとう)を皇太子に立てた。呉のすべての部将と官吏は、爵位を進められて恩賞を受けた。
『三国志』(呉書・呉主伝)
【05月】
呉の孫権が、校尉の張剛(ちょうごう)と管篤(かんとく)を遼東に遣わす。
『三国志』(呉書・呉主伝)
【06月】
癸卯(きぼう)の日(21日)
魏の繁陽王の曹穆(そうぼく)が薨去する。
『三国志』(魏書・明帝紀)
【06月】
戊申(ぼしん)の日(26日)
魏の曹叡が、高祖父で大長秋の曹騰(そうとう)に高皇帝の尊号を、その夫人であった呉氏にも高皇后の尊号を、それぞれ追贈する。
『三国志』(魏書・明帝紀)
【06月】
蜀の劉禅が、衛尉の陳震(ちんしん)を遣わし、呉の孫権の即位を寿ぐ。
そこで孫権は、蜀との協議のもとに天下の土地を分かち、「豫州・青州・徐州・幽州を呉のものとし、兗州・冀州・幷州・涼州を蜀のものとし、司州は函谷関を境として両分する」との盟約を結んだ。
『三国志』(呉書・呉主伝)
【07月】
魏の曹叡が詔を下す。「万一、魏の跡継ぎが諸侯の中から出て入朝し、大いなる皇統を受け継ぐ場合、他家の跡取りの取るべき建前を明白にすべきである」として、「皇帝の亡き父を『皇』と呼び、亡き母を『后』と呼ぶようなことがあれば、たとえそうするように勧めたのが補佐の大臣であっても誅殺し、決して許してはならない」というもの。
『三国志』(魏書・明帝紀)
【09月】「呉の遷都」
呉の孫権が、武昌から建業に遷都する。この遷都にあたっては、もともと建業にあった役所を使用することにし、新しく役所を建てないよう配慮した。
また、上将軍の陸遜(りくそん)を呼び戻し、皇太子の孫登の後見役に任じたうえ、もとの都である武昌の取り締まりにあたらせた。
『三国志』(呉書・呉主伝)
⇒09月
呉の孫権が、武昌から建業に遷都する。この際、皇太子の孫登と尚書の役所が武昌に留められた。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表
【冬】
蜀の諸葛亮が、陣営を南山のふもとの平原に移し、漢城と楽城を築く。
『三国志』(蜀書・後主伝)
【10月】
魏の曹叡が、平望観を聴訟観と改める。
『三国志』(魏書・明帝紀)
★また「いつも明帝(曹叡)は『裁判は天下の生命である』と言い、大きな裁判があるごとに行幸すると、臨席して取り調べた」ともある。
【10月】
魏の曹叡が、陳羣(ちんぐん)・劉邵(りゅうしょう)らに命じ、漢の法律を簡約にした新律を制定させる。
『正史 三国志8』の年表
【11月】
魏の曹叡が、太常の韓曁(かんき)に節(使者のしるし)を持たせて鄴に遣わし、高皇帝(曹騰)・太皇帝(曹嵩〈そうすう〉)・武皇帝(曹操〈そうそう〉)・文皇帝(曹丕〈そうひ〉)の位牌を洛陽に迎える。
己丑(きちゅう)の日(12月10日)
これらの位牌が洛陽に到着し、完成した霊廟に安置された。
『三国志』(魏書・明帝紀)
★裴松之(はいしょうし)の考え…黄初(こうしょ)4(223)年に魏の担当官吏が、「二廟を建立されますように」と上奏した件を取り上げて、「この本伝では高祖(曹丕の祖父の祖父にあたる曹節〈そうせつ〉)の位牌についての言及がないが、おそらく近しい関係が尽きたので取り壊したものであろう」との見解を示している。
また「このことからすると魏の初期には、ただ関係が近い先祖の廟を建立し、4つの室で祭っただけであって、景初(けいしょ)元(237)年に至って初めて、『七廟の制度』が定められたのである」と推測している。
★同じくここで「孫盛(そんせい)がいった」として、曹叡が先祖の位牌を洛陽に迎え移したことを、「誠に筋道にかなっている」と評価している。
【12月】
癸卯(きぼう)の日(24日)
大月氏国の王の波調(はちょう)が、魏に使者を遣わし貢ぎ物を献ずる。魏の曹叡は、波調を親魏大月氏王に封じた。
『三国志』(魏書・明帝紀)
【?月】
この年、呉の全琮(ぜんそう)が、衛将軍・左護軍・徐州牧に昇進し、公主(孫権の娘の全公主)を妻に賜った。
『三国志』(呉書・全琮伝)
特記事項
「この年(229年)に亡くなったとされる人物」
曹穆(そうぼく)・曹邕(そうよう)・曹礼(そうれい)・趙雲(ちょううん)
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