169年(漢の建寧2年)の主な出来事

-169年- 己酉(きゆう)
【漢】 建寧(けんねい)2年 ※霊帝(劉宏〈りゅうこう〉)

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月別および季節別の主な出来事

【01月】
丁丑(ていちゅう)の日(2月5日?)
霊帝が大赦を行う。
『後漢書』(霊帝紀)

【03月】
乙巳(いっし)の日(3日)
霊帝が、母である慎園貴人の董氏(とうし)を尊び、孝仁皇后とする。
『後漢書』(霊帝紀)

⇒?月
霊帝は中常侍に董氏を迎えに行かせ、併せて董氏の兄の董寵(とうちょう)も召し寄せた。

そして董氏を孝仁皇后と尊称し、南宮の嘉徳殿に住まわせ、その宮を永楽と称した。また、董寵を執金吾に任じた。しかし董寵は、後に永楽后(董氏)の依頼と偽って請託した罪により、投獄されて獄死した。
『後漢書』(董皇后紀)

【04月】
大風が吹き、雹(ひょう)も降る。
『後漢書』(霊帝紀)

ここでは具体的な場所についての記述はなかった。

【04月】
霊帝が公卿以下に詔を下し、それぞれ封事を奉らせる。
『後漢書』(霊帝紀)

【?月】
このころしばしば災異が起こる。それにかこつけて張奐(ちょうかん)が上疏し、「党錮(とうこ)の禁を緩められますように」と主張する。また、謝弼(しゃひつ)が封事を行って陳蕃(ちんばん)を称賛し、「宦官(かんがん)の勢力を抑えられますように」と主張する。しかし、霊帝はいずれの意見も用いなかった。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

【04月】
謝弼が獄死する。
『正史 三国志8』の年表

【05月】
霊帝が、太尉の聞人襲(ぶんじんしゅう)と司空の許栩(きょく)を罷免する。
『後漢書』(霊帝紀)

【06月】
霊帝が、司徒の劉寵(りゅうちょう)を太尉に、太常の許訓(きょくん)を司徒に、太僕の劉囂(りゅうごう)を司空に、それぞれ任ずる。
『後漢書』(霊帝紀)

【07月】
破羌将軍の段熲(だんけい)が、射虎塞の外谷で先零羌を大破する。これにより東羌はすべて平定された。
『後漢書』(霊帝紀)

【09月】
江夏蛮が反乱を起こしたものの、州郡がこれを討伐して平定する。
『後漢書』(霊帝紀)

【09月】
丹陽郡の山越が反乱を起こす。丹陽太守の陳夤(ちんいん)は包囲されたものの、これを撃破した。
『後漢書』(霊帝紀)

陳夤について、『全譯後漢書 第2冊』(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉、岡本秀夫〈おかもと・ひでお〉、池田雅典〈いけだ・まさのり〉編 汲古書院)の補注は、「後文や『後漢書』(天文志)では陳寅とあること」を指摘している。

【10月】「第二次党錮(とうこ)の禁」
丁亥(ていがい)の日(19日)
中常侍の侯覧(こうらん)が官吏に示唆して、前の司空の虞放(ぐほう)、太僕の杜密(とみつ)、長楽少府の李膺(りよう)、司隷校尉の朱㝢(しゅう)、潁川太守(えいせんたいしゅ)の巴粛(はしゅく)、沛国相の荀昱(じゅんいく)、河内太守の魏朗(ぎろう)、山陽太守の翟超(てきちょう)らをみな党人として弾劾させる。

彼らは投獄され、100余人もの死者が出た。また、その妻子も辺境へ流刑となり、連座して禁錮(きんこ)を受ける者が5親等にまで及んだ。霊帝が詔を下し、州郡に党人の検挙を命じたため、天下の豪傑や徳行ある儒者は、みな党人とされてしまった。
『後漢書』(霊帝紀)

【10月】
戊戌(ぼじゅつ)の日(30日)、晦(かい)
日食が起こる。
『後漢書』(霊帝紀)

【11月】
霊帝が、太尉の劉寵を罷免し、太僕の郭禧(かくき)を太尉に任ずる。
『後漢書』(霊帝紀)

郭禧について、『全譯後漢書 第2冊』の補注は「袁宏(えんこう)の『後漢紀』(霊帝紀)では郭僖に作ること」を指摘している。

【11月】
鮮卑が幷州に侵攻する。
『後漢書』(霊帝紀)

【?月】
この年、玄菟太守(げんとたいしゅ)の耿臨(こうりん)が、句麗(高句麗)の伯固(はくこ)を討伐し、数百人を斬首および捕虜とする。伯固は降伏し、遼東郡の支配下に入った。
『三国志』(魏書・東夷伝)

【?月】
この年、長楽太僕の曹節(そうせつ)が車騎将軍に任ぜられたものの、100余日で罷免された。
『後漢書』(霊帝紀)

特記事項

「この年(169年)に生まれたとされる人物」
田疇(でんちゅう)

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