246年(魏の正始7年・蜀の延熙9年・呉の赤烏9年)の主な出来事

-246年- 丙寅(へいいん)
【魏】 正始(せいし)7年 ※少帝(しょうてい。曹芳〈そうほう〉)
【蜀】 延熙(えんき)9年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉)
【呉】 赤烏(せきう)9年 ※大帝(たいてい。孫権〈そんけん〉)

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月別および季節別の主な出来事

【02月】
魏(ぎ)の幽州刺史(ゆうしゅうしし)の毌丘倹(かんきゅうけん)が高句驪(こうくり。高句麗)を討伐する。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・斉王紀〈せいおうぎ〉)

⇒02月
魏の幽州刺史の毌丘倹が、高句麗王(こうくりおう。高句麗王)の位宮(いきゅう)を討伐し、その都である丸都(がんと)を陥す。

さらに毌丘倹は、玄菟太守(げんとたいしゅ)の王頎(おうき)を追い、沃沮(よくしょ)から粛慎氏(しゅくしんし)の南界にまで軍を進めた。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

【02月】
呉(ご)の車騎将軍(しゃきしょうぐん)の朱然(しゅぜん)が、魏の柤中(そちゅう)に軍を進め、1千余人を斬ったり捕虜にする。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉)

【04月】
呉の孫権のもとに、「武昌(ぶしょう)で甘露が降った」との報告が届く。
『三国志』(呉書・呉主伝)

【05月】
魏の幽州刺史の毌丘倹が、高句驪に続き、濊貊(わいばく)も討伐する。
『三国志』(魏書・斉王紀)

【06月】
蜀(しょく)の費禕(ひい)が成都(せいと)に帰還する。
『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・後主伝〈こうしゅでん〉)

【?月】
東夷(とうい)の韓那奚(かんなけい)ら数十か国が、それぞれ部族をひきいて魏に降伏する。
『三国志』(魏書・斉王紀)

【秋】
蜀の劉禅が大赦を行う。
『三国志』(蜀書・後主伝)

【08月】
戊申(ぼしん)の日(6日)
魏の曹芳が詔(みことのり)を下す。「近ごろ市場で売り払われている奴婢(ぬひ)を見ると、みな70歳ほどであり、中には老衰や死にかけの病人までいる。そのうえ役所では、彼ら奴婢の体力が尽きてしまったために、これを再度売り払おうとしている」と指摘し、「これらすべての者を解放して平民とせよ。もし自活していけない者があれば、郡や県は救済してやるように」というもの。
『三国志』(魏書・斉王紀)

裴松之(はいしょうし)の調査…「帝(曹芳)が即位したてのころ(239年1月)、『官庁所属の奴婢で60歳以上の者は、解放して平民とせよ』という詔を下していること」を指摘。

「これを永続的な制度とするのが当然なのに、それから7、8年のうちに、70歳にもなる者を売ったり、老衰や死にかけの病人と言えば、決して売れるような代物ではないのに、これを市場で売り払うと言っている。これらのことはどれもこれも理解しがたい」としている。

【08月】
己酉(きゆう)の日(7日)
魏の曹芳が詔を下す。19日(辛酉〈しんゆう〉の日?)に自ら祭祀を執り行うという予定に触れ、「先日、朕が外出した際、すでに道路を整備しているのを目にした。もし雨が降れば、また改めて整備しなければならないのだから、これはいたずらに労力を費やしていることになる」と述べ、「老人や子どもを殴ったり、鞭打ったりしてまで、道路の整備をさせることがないようにせよ」というもの。
『三国志』(魏書・斉王紀)

【09月】
呉の孫権が、驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)の歩騭(ほしつ)を丞相(じょうしょう)に、車騎将軍の朱然を左大司馬(さだいしば)に、衛将軍(えいしょうぐん)の全琮(ぜんそう)を右大司馬(ゆうだいしば)に、鎮南将軍(ちんなんしょうぐん)の呂岱(りょたい)を上大将軍(じょうだいしょうぐん)に、威北将軍(いほくしょうぐん)の諸葛恪(しょかつかく)を大将軍(だいしょうぐん)に、それぞれ任ずる。
『三国志』(呉書・呉主伝)

⇒09月
呉の孫権が、歩騭を丞相に、朱然を左大司馬に、全琮を右大司馬に、それぞれ任ずる。また荊州(けいしゅう)をふたつに分け、呂岱と諸葛恪に軍事を委ねた。
『正史 三国志8』の年表

【11月】「蔣琬(しょうえん)の死」
蜀の大司馬の蔣琬が死去する。
『三国志』(蜀書・後主伝)

【?月】
蜀の劉禅が、姜維(きょうい)を衛将軍に任じ、費禕とともに政治の枢にあたらせる。
『正史 三国志8』の年表

⇒12月
蜀の大司馬の蔣琬が病没。劉禅は、姜維を衛将軍に任じ、費禕とともに政治の要にあたらせる。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補・改訂版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 潮書房光人社)の『三国志』年表

【12月】
魏の曹芳が、『礼記(らいき)』を終わりまで学び、太常(たいじょう)に命じて太牢(たいろう。牛・羊・豕〈し。ブタ〉)の犠牲(いけにえ)を捧げさせ、辟雍(へきよう。天子〈てんし〉が建てた太学〈たいがく〉)で孔子(こうし)を祭らせ、顔淵(がんえん)も併せて祭る。
『三国志』(魏書・斉王紀)

『漢晋春秋(かんしんしゅんじゅう)』…この年(246年)、呉の朱然が柤中に侵攻したため、柤中の官民1万余家が沔水(べんすい)を渡って避難した。

その際、避難民の扱いを巡り、司馬懿(しばい)と曹爽(そうそう)の意見が対立。曹爽は司馬懿の意見を聞き入れず、避難民を柤中へ帰した。すると朱然に背後から襲われ、討ち破られてしまった。

また、袁淮(えんわい)は曹爽に、江夏(こうか)より東にある淮南(わいなん)の諸郡を淮水(わいすい)の北へ移し、淮水・漢水(かんすい)以南の地を放棄するよう進言したが、曹爽は容れなかった。

【?月】
この年、呉の孫権が詔を下し、大銭(だいせん)の発行と通用をやめさせた。
『三国志』(呉書・呉主伝)の裴松之注に引く『江表伝(こうひょうでん)』

大銭については、先の236年春の記事および238年春の記事を参照。

特記事項

「この年(246年)に亡くなったとされる人物」
蔣琬(しょうえん)董允(とういん)

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