272年(晋の泰始8年・呉の鳳皇〈鳳凰〉元年)の主な出来事

-272年- 壬辰(じんしん)
【晋】 泰始(たいし)8年 ※武帝(司馬炎〈しばえん〉)
【呉】 鳳皇(ほうおう。鳳凰)元年 ※帰命侯(孫晧〈そんこう〉)

スポンサーリンク
スポンサーリンク

月別および季節別の主な出来事

【01月】
晋の監軍の何楨(かてい)が、匈奴の劉猛(りゅうもう)を討伐して連破する。これを受け、匈奴の左部帥の李恪(りかく)が劉猛を殺害して降伏した。
『晋書』(武帝紀)

【01月】
癸亥(きがい)の日(19日)
晋の司馬炎が籍田を耕す。
『晋書』(武帝紀)

【01月】「呉の改元」
呉の孫晧が、年初より「建衡(けんこう)」を「鳳皇(鳳凰)」と改元する。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

【02月】
乙亥(いつがい)の日(1日)
晋の司馬炎が、彫刻を施した飾りや美しい文様のある組み紐(ひも)のうち、法の定めに合わないものを禁止する。
『晋書』(武帝紀)

【02月】「司馬孚(しばふ)の死」
壬辰(じんしん)の日(18日)
晋の太宰・安平王の司馬孚が薨去(こうきょ)する。
『晋書』(武帝紀)

【02月】
壬辰の日(18日)
晋の司馬炎が詔を下し、内外の群官に辺境の適任者を3人ずつ推挙させる。
『晋書』(武帝紀)

【02月】
壬辰の日(18日)
晋の司馬炎が右将軍の皇甫陶(こうほとう)と議論したところ、ふたりが言い争いになる。これを受けて散騎常侍の鄭徽(ていき)が上表し、皇甫陶の罪を問うよう要請する。

しかし司馬炎は詔を下し、直言した皇甫陶を評価する一方、職分を越えてみだりに上奏を行った鄭徽を免官した。
『晋書』(武帝紀)

【04月】
晋の司馬炎が、後将軍の官を設置し、これにより(前後左右の)4軍が備わる。
『晋書』(武帝紀)

【06月】
益州牙門の張弘(ちょうこう)が、益州刺史の皇甫晏(こうほあん)が反乱を起こしたと誣告したため、司馬炎が処刑を命じ、その首を都(洛陽)に伝送させる。さらに張弘に連座して、その三族も棄市(公開処刑)となった。
『晋書』(武帝紀)

『角川 新字源 改訂新版』(小川環樹〈おがわ・たまき〉、西田太一郎〈にしだ・たいちろう〉、赤塚忠〈あかつか・きよし〉、阿辻哲次〈あつじ・てつじ〉、釜谷武志〈かまたに・たけし〉、木津祐子〈きづ・ゆうこ〉編 KADOKAWA)には、夷三族(三族之刑)について、「漢代、謀反・大逆の罪を犯した者は、父母・妻子・同産(兄弟姉妹)をも棄市(市場での首切り)に処する刑罰。」との説明があった。

【06月】
壬辰(じんしん)の日(20日)
晋の司馬炎が大赦を行う。
『晋書』(武帝紀)

【06月】
丙申(へいしん)の日(24日)
晋の司馬炎が詔を下し、隴右(ろうゆう)の4郡で侵略の被害に遭った者の田租を免除する。
『晋書』(武帝紀)

【07月】
晋の司馬炎が、車騎将軍の賈充(かじゅう)を司空に任ずる。
『晋書』(武帝紀)

【09月】
呉の西陵督の歩闡(ほせん)が晋に来降し、司馬炎が、衛将軍・開府・儀同三司(三公待遇)に任じたうえ、宜都公に封ずる。
『晋書』(武帝紀)

⇒08月
呉の孫晧が、西陵督の歩闡を召還しようとしたところ、歩闡が従わず、城に立て籠もったまま晋に投降する。

そこで孫晧は、楽郷都督の陸抗(りくこう)を遣わし、西陵を包囲して歩闡を捕らえさせた。歩闡の配下にいた軍勢はみな降伏し、歩闡と彼の企てに加わった者数十人は一族皆殺しにされた。この事件が解決すると、孫晧は大赦を行った。
『三国志』(呉書・孫晧伝)

【09月】
呉の将軍の陸抗が(晋に降った)歩闡を攻めたため、司馬炎が、車騎将軍の羊祜(ようこ)に軍勢をひきいて江陵から出撃させ、荊州刺史の楊肇(ようちょう)に西陵まで歩闡を迎えに行かせ、巴東監軍の徐胤(じょいん)に呉の建平を攻めさせ(ることで呉軍を誘導し)、歩闡を救おうとする。
『晋書』(武帝紀)

【10月】
辛未(しんび)の日(1日)、朔(さく)
日食が起こる。
『晋書』(武帝紀)

【12月】
晋の荊州刺史の楊肇が呉の将軍の陸抗を攻めたが、勝つことができずに帰還する。歩闡の城(西陵城)は陥落し、歩闡自身も陸抗に捕らえられた。
『晋書』(武帝紀)

【?月】
晋の益州刺史の王濬(おうしゅん)が大艦を建造する。
『正史 三国志8』の年表

【?月】
呉の建平太守の吾彦(ごげん)が、「晋が呉の攻略を計画している」と警告する上奏を行ったものの、孫晧は無視する。
『正史 三国志8』の年表

【?月】「万彧(ばんいく)の死」
この年、呉の右丞相の万彧が、孫晧の譴責(けんせき)を受けて憂死した。さらに、その子弟も廬陵に強制移住させられた。
『三国志』(呉書・孫晧伝)

『江表伝』…万彧および留平(りゅうへい)が死に至るまでの経緯について。

【?月】
この年、呉の何定(かてい)の悪事が発覚し、孫晧に誅殺された。孫晧は「何定の悪事は張布(ちょうふ)の場合と似ている」と言い、何定の死後、その名を何布(かふ)と改めさせた。
『三国志』(呉書・孫晧伝)

『江表伝』…何定(何布)について。

『呉歴』…奚熙(けいき)が賀恵(がけい)らを讒言(ざんげん)した話。

特記事項

「この年(272年)に亡くなったとされる人物」
何定(かてい)・司馬孚(しばふ)・万彧(ばんいく)歩闡(ほせん)留平(りゅうへい)?

コメント ※下部にある「コメントを書き込む」ボタンをクリック(タップ)していただくと入力フォームが開きます

タイトルとURLをコピーしました