蜀(しょく)の劉備(りゅうび)の娘たちについて

こちらの謎は蜀(しょく)の劉備(りゅうび)の娘たちに関するものです。

このカテゴリーでは「三国志の世界」と付き合う中で、管理人(かぶらがわ)が個人的に疑問を感じたテーマを取り上げます。

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概要

正史『三国志』もそうですが、主要人物の息子に関する記事はあっても、娘(に限らず女性全般)に関する記事はほとんどない、というのが史書では普通ですよね。

劉備の娘たちについても謎が多いのですけど、『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・曹仁伝〈そうじんでん〉)に付された「曹純伝(そうじゅんでん)」には以下のような記述があります。

「[建安(けんあん)13(208)年、曹純が曹操(そうそう)に]従征荊州(けいしゅう)、追劉備於長坂(ちょうはん)、獲其二女(ふたりの娘)輜重(しちょう)、収其散卒。進降江陵(こうりょう)、従還譙(しょう)」
『三国志』(魏書・曹仁伝)に付された「曹純伝」

長坂の戦いにおいて、曹純が劉備のふたりの娘を捕らえたことがしっかりと書かれています。

管理人「かぶらがわ」より

ほかならぬ劉備の娘ですから……。曹操はあえて処刑したりしなかったと思います。となると、このふたりはいったいどこへ行ってしまったのでしょうね。

この件については物語なら採り上げてみてもおもしろそうなのですけど、そういう話は聞こえてきません。

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