正史『三国志』における孫邵(そんしょう)の扱いについて

こちらの謎は正史『三国志』における孫邵の扱いに関するものです。

このカテゴリーでは「三国志の世界」と付き合うなかで、管理人(かぶらがわ)が個人的に疑問を感じたテーマを取り上げます。

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概要

呉(ご)の初代丞相(じょうしょう)の孫邵について、正史『三国志』の本文には没年に関する簡単な記述しかありません。

「[呉の黄武(こうぶ)]四(225)年夏五月、丞相孫邵卒」
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉)

彼の人となりや事跡については、裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く張勃(ちょうぼつ)の『呉録(ごろく)』に書かれています。

「呉録曰、邵(孫邵)字長緒(ちょうしょ)、北海(ほっかい)人、長八尺(はっせき)」

「為孔融(こうゆう)功曹(こうそう)、融(孔融)曰、廊廟才也。従劉繇(りゅうよう)於江東(こうとう)。及権(けん。孫権〈そんけん〉)統事、数陳便宜、以為応納貢聘、権(孫権)即従之」

「拝廬江太守(ろこうのたいしゅ)、遷車騎長史(しゃきちょうし)。黄武初為丞相、威遠将軍(いえんしょうぐん)、封陽羨侯(ようせんこう)」

「張温(ちょうおん)、曁豔(きえん)奏其事、邵(孫邵)辞位請罪、権(孫権)釈令復職、年六十三卒」
『三国志』(呉書・呉主伝)の裴松之注に引く張勃の『呉録』

三国の一角を形成した呉の初代丞相でありながら、孫邵の伝が正史『三国志』に立てられなかったのが謎です。

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管理人「かぶらがわ」より

この件については裴松之も疑問を感じたようで、『三国志』(呉書・呉主伝)に虞喜(ぐき)の『志林(しりん)』を引いています。

「志林曰、呉之創基、邵(孫邵)為首相(丞相)、史無其伝、窃常恠之。嘗問劉声叔(りゅうせいしゅく)」

「声叔(劉声叔)、博物君子也、云、推其名位、自応立伝。項竣(こうしゅん)、呉孚(丁孚〈ていふ〉)時已有注記、此云與張恵恕(ちょうけいじょ。張温)不能」

「後韋氏(いし。韋昭〈いしょう〉、韋曜〈いよう〉)作史、蓋恵恕(張温)之党、故不見書」
『三国志』(呉書・呉主伝)の裴松之注に引く虞喜の『志林』

呉が建国されたころ、孫邵が丞相を務めたが、史書には彼の伝がなく、いつも私はおかしいと思っていた。この件を劉声叔に尋ねたことがある。

劉声叔は博学な君子だが、その彼が言うには、名声や地位からして当然ながら孫邵の伝は立てられるべきだ。

[呉の歴史の編纂(へんさん)に携わった]項竣や丁孚のとき、すでに孫邵の記録があり、そこでは孫邵が張温とうまくいっていなかったという。

その後、韋昭が呉の歴史をまとめた(『呉書』を編纂した)とき、おそらく韋昭が張温の党派に属していたため、孫邵の伝を立てなかったのだろう。

なるほど、という感じ。正史『三国志』の『呉書』部分は韋昭(韋曜)の『呉書』が基になっていますから、この説が本当なら納得がいきますね。

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