孫邵(そんしょう) ※あざなは長緒(ちょうしょ)

【姓名】 孫邵(そんしょう) 【あざな】 長緒(ちょうしょ)

【原籍】 北海郡(ほっかいぐん)

【生没】 163~225年(63歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

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呉(ご)の初代丞相(じょうしょう)

父母ともに不詳。

初め孫邵は孔融(こうゆう)の下で功曹(こうそう)を務め、朝廷に立つべき人材であると称賛された。後に江東(こうとう)の劉繇(りゅうよう)のもとへ身を寄せ、やがて江東を支配した孫権(そんけん)に仕えた。

孫邵が、朝廷に公式の使者を遣わして献上品を奉るよう勧めると、すぐに孫権はこの意見を容れた。孫邵は廬江太守(ろこうたいしゅ)に任ぜられ、車騎長史(しゃきちょうし)に昇進した。

219年に孫権が驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)に任ぜられると、孫邵は張昭(ちょうしょう)や鄭札(ていさつ)らとともに、呉における儀礼制度の制定にあたった。

222年には丞相・威遠将軍(いえんしょうぐん)に任ぜられ、陽羨侯(ようせんこう)に封ぜられた。

張温(ちょうおん)と曁豔(きえん)が彼のことをあげつらった上奏をすると、孫邵は官を辞して罪を乞うたが、孫権はもとの職に戻らせた。

その後、225年5月に死去。このとき63歳だった。

管理人「かぶらがわ」より

呉の初代丞相でありながら、『三国志』には孫邵の伝が立てられていません。

この疑問については『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く虞喜(ぐき)の『志林(しりん)』で採り上げられており、以下のようにあります。

「呉の建国当初は孫邵が丞相を務めたが、史書には彼の伝がない。私はつねづねこのことをいぶかしんでいた。あるとき劉声叔(りゅうせいしゅく)にこの件を尋ねると、彼は次のように答えた」

「『孫邵の名声や官位から考えれば、伝が立てられるのは当然だ。(呉の歴史の編纂〈へんさん〉を手がけた)項竣(こうしゅん。項峻)や丁孚(ていふ)の時、すでに彼についての記録があったが、それによると、彼は張恵恕(ちょうけいじょ。張温)と折り合いが悪かったと言っている』」

「『後に韋氏(いし。韋昭〈いしょう〉。韋曜〈いよう〉)が呉の歴史をまとめた(『呉書』。『三国志』のそれとは別物)とき、おそらく韋氏が張恵恕の党に属していたため、伝を立ててもらえなかったのだろう』」

そういう理由だったの? と思わないでもないですが、韋昭(韋曜)の『呉書』に孫邵の伝が立てられなかったため、それを参考にして書かれた陳寿(ちんじゅ)の『三国志』でも、そのラインナップが引き継がれたということか……。

『三国志』に伝がないのは気の毒な孫邵。彼の経歴から見えてくる呉の動きもあったと思うので、これは残念でした。

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