崔林(さいりん) ※あざなは徳儒(とくじゅ)

【姓名】 崔林(さいりん) 【あざな】 徳儒(とくじゅ)

【原籍】 清河郡(せいかぐん)東武城県(とうぶじょうけん)

【生没】 ?~244年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・崔林伝』あり。

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本質を大まかにつかむ行政で官民の支持を得る、諡号(しごう)は孝侯(こうこう)

父母ともに不詳。崔琰(さいえん)は従兄。息子の崔述(さいじゅつ)は跡継ぎで、崔随(さいずい)も同じく息子。

崔林は晩成の質だったので、若いころ親族の誰からも認められなかった。ただ、従兄の崔琰だけは彼を評価していた。

204年、曹操(そうそう)が冀州(きしゅう)を平定すると、崔林は召されて鄔県長(うけんちょう)に任ぜられる。

だが、崔林は貧乏で車や馬を持っておらず、お供も連れずに徒歩で任地へ赴いたという。

206年、曹操が高幹(こうかん)討伐のため壺関(こかん)へ遠征した際、県の令長(れいちょう)のうち、仁徳がある政治を行っている者について尋ねた。

そこで幷州刺史(へいしゅうしし)の張陟(ちょうちょく)が崔林の名を挙げたところ、崔林は冀州主簿(きしゅうしゅぼ)に抜てきされ、次いで別駕(べつが)や丞相掾属(じょうしょうえんぞく)を歴任した。

曹操が丞相を務めていた期間は208~220年。

213年、魏が建国された後、崔林は昇進を重ねて御史中丞(ぎょしちゅうじょう)となる。

220年、曹丕(そうひ)が帝位に即くと尚書(しょうしょ)となり、地方へ出て幽州刺史(ゆうしゅうしし)を務めた。

このころ北中郎将(ほくちゅうろうしょう)の呉質(ごしつ)が河北(かほく)の軍事を統括していたため、涿郡太守(たくぐんたいしゅ)の王雄(おうゆう)は崔林配下の別駕を通じ、崔林も呉質に敬意を表したほうがよいと忠告した。

だが崔林は、(呉質の機嫌を損ねて)州を去ることなど履物を脱ぎ捨てる程度のものだと言い、まったく気にかけなかった。こうして一期(?)在職したが、北方民族の侵奪は影を潜める。

それでも崔林は上司に頭を下げなかったので、結局は河間太守(かかんたいしゅ)に左遷され、人々から残念がられた。

その後、崔林は大鴻臚(だいこうろ)に昇進する。

222年、亀茲王(きゅうじおう)の息子が曹丕に近侍するため来朝すると、魏は遠方からの来朝を嘉(よみ)し、王にたいそう手厚い褒賞を与えた。

この話を聞き、ほかの西域(せいいき)の都市国家の王たちも息子を来朝させ、その仲立ちを求める使者が続々とやってくる。

崔林は、彼らの中には偽者が混じっており、遠縁の商人を駆り出して使者の役をさせ、魏の印綬(いんじゅ。官印と組み紐〈ひも〉)を手に入れようとしている場合もあるのに、魏では彼らを護送するための出費が多額に上っていることを懸念する。

そこで燉煌(とんこう)に公文書を送り、趣旨を説明したうえ、諸国の使者を接待する際、丁寧に行うべきときと簡略に行うべきときの例を示し、恒常的な規則を設けさせた。

226年、曹叡(そうえい)が帝位を継ぐと、崔林は関内侯(かんだいこう)に封ぜられ、光禄勲(こうろくくん)や司隷校尉(しれいこうい)を務める。

崔林は管轄下の郡における違法行為をやめさせ、過剰な下役を廃した。

崔林の行政は誠実さを貫き、本質を大まかにつかむというもの。そのため彼が転任すると、いつも前任地の住民から思慕されたという。

景初(けいしょ)年間(237~239年)、散騎常侍(さんきじょうじ)の劉劭(りゅうしょう)が詔(みことのり)を受けて「考課論(こうかろん。官吏の任用や昇進に関する評定制度についての論)」を作り、これを官僚に下げ渡して研究することになった。

崔林は、考課については法文よりも運用する人材に成否がかかっているとし、軍の派遣が多かったり、突如なされたりしており、さらに内外(宮中と政府)の区別があって増減が常ない現状では、ひとつの法で固定することは困難だと述べた。

238年、崔林は司空(しくう)に昇進し、安陽亭侯(あんようていこう)に爵位が進み封邑(ほうゆう)600戸を賜る。

三公の位にある者が列侯(れっこう)の爵位を賜るようになったのは、崔林から始まったことだという。

しばらくすると、さらに安陽郷侯(あんようきょうこう)に爵位が進む。また、崔林の封邑が分割され、息子のひとりが列侯に封ぜられた。

244年、崔林が死去すると孝侯と諡(おくりな)され、息子の崔述が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

初め鄔県長となったときに単身かつ徒歩で赴任したり、幽州刺史の地位を捨て去ることなど気にかけなかったという崔林。

形式にこだわることなく、あくまで実質を重視する姿勢は、確かに官民の支持が得られたでしょう。

それでも、より興味を引かれたのは西域の都市国家の話でした。

来朝する王の息子や使者に偽者が混じっていたとは――。人の考えることというのは、時代を経てもあまり変わらないものですね。

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