高柔(こうじゅう) ※あざなは文恵(ぶんけい)、魏(ぎ)の安国元侯(あんこくげんこう)

【姓名】 高柔(こうじゅう) 【あざな】 文恵(ぶんけい)

【原籍】 陳留郡(ちんりゅうぐん)圉県(ぎょけん)

【生没】 174~263年(90歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第107回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・高柔伝』あり。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

長く法の執行に携わった後で三公を歴任、安国元侯(あんこくげんこう)

父は高靖(こうせい)だが、母は不詳。高幹(こうかん)は従兄。

高儁(こうしゅん)・高誕(こうたん)・高光(こうこう)という3人の息子がいたが、跡を継いだのは孫の高渾(こうこん)。

父の高靖が蜀郡都尉(しょくぐんとい)を務めていたとき、高柔は郷里で留守を預かった。

高柔は、陳留が四方から攻撃される危険な位置にあることや、ここを押さえている張邈(ちょうばく)と曹操(そうそう)との間で争いが起こることを懸念する。

そこで一緒に難を避けようと呼びかけたが、みな張邈が曹操と親しいうえ、高柔も年少だったことから賛成しなかった。

従兄の高幹は袁紹(えんしょう)の甥にあたり、河北(かほく)へ高柔を呼び寄せた。高柔は一族を挙げて高幹を頼る。

そのうち高靖が益州(えきしゅう)で死去した。

当時は道路の通行が難儀を極め、戦争による侵奪行為もひどかった。しかし、高柔は危険を冒して蜀へ赴き、父の遺体を迎え取る。辛酸をなめ尽くし、3年がかりで帰還した。

205年、曹操が袁譚(えんたん)を討ち破り河北を平定すると、高柔は菅県長(かんけんちょう)に任ぜられる。

かねて県民は高柔の名を聞いており、数人の姦吏(かんり)が自ら逃げ去った。

高柔は、前漢(ぜんかん。宣帝〈せんてい。在位、前73~前49年〉の時代)で丞相(じょうしょう)を務めた邴吉(へいきつ)の態度を例に挙げ、逃げ去った役人を召し還す。

こうして戻った者たちは務めに励み、立派な役人になったという。

翌206年、一度は曹操に降伏した高幹が、幷州(へいしゅう)に拠って背く。

高柔は自分から帰服したものの、曹操は事にかこつけて彼を処刑しようと思い、あえて刺奸令史(しかんれいし)に任ずる。

ところが、高柔の法の適用は妥当であり、裁判も滞ることがなかった。このため処刑されず、かえって丞相倉曹属(じょうしょうそうそうぞく)に取り立てられた。

曹操が丞相を務めていた期間は208~220年。

213年、魏が建国されると高柔は尚書郎(しょうしょろう)となり、丞相理曹掾(じょうしょうりそうえん)に転ずる。

あるとき鼓吹(軍楽係)の宋金(そうきん)らが合肥(ごうひ)で逃亡した。旧来の法では出征中に兵士が逃亡した場合、その妻子を徹底的に取り調べることになっていた。

曹操は、それでも逃亡者がなくならないことを案じ、改めて刑罰を重くした。

宋金には母と妻、ふたりの弟がおり、みな官の奴隷とされたが、担当官吏は全員の処刑を上奏する。

すると高柔は、士卒の逃亡は憎むべきことだとしながらも、その妻子は寛大に扱ったほうがよいと進言した。

さらに、ひとつには賊軍の中に不審の念を抱かせることができ、ふたつには彼らの帰心を誘うことができるからだと理由も述べた。

納得した曹操は関連する法を廃止し、宋金の母や弟らを殺さなかった。この高柔の進言によって助かった者は甚だ多かったという。

高柔は潁川太守(えいせんたいしゅ)に昇進し、中央へ戻って丞相法曹掾(じょうしょうほうそうえん)となる。

このころ校事(こうじ)として盧洪(ろこう)と趙達(ちょうたつ)らが置かれ、群臣を監視していた。

高柔は、校事の設置は上司が部下を信頼するという趣旨から外れているうえ、趙達らは自己の愛憎により勝手な行いをしていると諫める。

曹操は聞き入れなかったが、後に趙達らが不正な利益を得ていたことが発覚。曹操は彼らを処刑し、高柔に謝ったという。

220年、曹丕(そうひ)が帝位に即くと高柔は治書侍御史(ちしょじぎょし)に任ぜられ、関内侯(かんだいこう)に封ぜられる。後に治書執法(ちしょしっぽう)の官位を加えられた。

当時、しばしば民間で誹謗(ひぼう)や妖言が行われたが、曹丕はこれを気に病み、妖言を流した者を例外なく処刑する一方、密告した者に褒美を与えていた。

高柔は上奏文を奉り、密告者に褒美を与える法を廃止するよう進言した。

曹丕はすぐには容れなかったものの、ますます誣告(ぶこく)する者が増えたため詔(みことのり)を下す。

「あえて誹謗を密告する者は、密告された者の罪をもって処罰する」

その結果、ついに誹謗や妖言はなくなった。

223年、高柔は廷尉(ていい)に昇進。このころ魏の三公には職務がなかったので、三公から朝政に参与したいとの声が上がる。

高柔は上奏文を奉って賛成し、朝廷で疑義が持ち上がったり、裁判に関する重大な問題が出てきたときは、三公の意見をお聴きになるべきだと述べる。

そして、三公を毎月1日と15日に参内させ、別に招いて政治の得失を講論させ、天下の事件についても十分な意見を述べてもらい、大いなる教化に役立ててほしいと求めた。

曹丕も高柔の意見を嘉納した。

226年、曹叡(そうえい)が帝位を継ぐと、高柔は延寿亭侯(えんじゅていこう)に爵位が進む。

高柔は教育の重要性を鑑みて上奏文を奉り、博士(はくし)らを序列に関係のない官位をもって礼遇すべきだと述べ、曹叡に容れられた。

後に大規模な宮殿の造営が行われ、民は役務に苦しむ。また、多くの女子を選んで後宮を充実させたが、生まれた皇子は続けて夭折(ようせつ)し、世継ぎが育たなかった。

高柔は上奏文を奉り、建築中のものはほぼ完成させて朝議や儀式などに用いることとし、労役にあたる者を解放し農業に従事させてほしいと述べる。

そして蜀(しょく)と呉(ご)を平定した暁には、再びそのほかの工事をなさればよいとも述べた。

さらに『周礼(しゅらい)』にある女官の定数(后妃以下120人)を挙げ、むやみに後宮の人数ばかり増やさず、しとやかで美しい者を念入りに選び、定数を超える者はみな実家へ帰すよう勧めた。

曹叡は返書を送り、高柔の進言に謝意を示した。

245年、高柔は太常(たいじょう)に転任するが、ここまで廷尉の在任期間は23年に及んだ。その10日後には司空(しくう)に昇進した。

248年、司徒(しと)に移る。

翌249年、太傅(たいふ)の司馬懿(しばい)の上奏によって曹爽(そうそう)が罷免されると、高柔は郭太后(かくたいこう。明元郭皇后〈めいげんかくこうごう〉)に召されて仮節(かせつ)・行大将軍事(こうだいしょうぐんじ)となり、曹爽の軍営を押さえた。

ほどなく曹爽が処刑されると、高柔は万歳郷侯(ばんざいきょうこう)に爵位が進む。

254年、曹髦(そうぼう)が帝位を継ぐと安国侯に爵位が進んだ。

256年、太尉(たいい)に転ずる。

260年、曹奐(そうかん)が帝位を継ぐと加増され、以前と合わせて封邑(ほうゆう)は4千戸となり、前後にわたってふたりの息子が亭侯に封ぜられた。

263年、高柔は90歳で死去し、元侯と諡(おくりな)される。孫の高渾が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

廷尉の在任期間が長かったこともあり、法に関する話が多く採り上げられていましたが、そのすべてを拾うことはできませんでした。

従兄の高幹が曹操に背いたとき、高柔は生涯最大の危機を迎えたと思いますが、ここをうまくしのいで長命を保ちました。

ただ、太常に転じたあたりからの記事はまばらなもので、廷尉の時とのギャップが感じられます。

コメント ※下部にある「コメントを書き込む」ボタンをクリック(タップ)していただくと入力フォームが開きます

タイトルとURLをコピーしました