【姓名】 董襲(とうしゅう) 【あざな】 元代(げんだい)
【原籍】 会稽郡(かいけいぐん)余姚県(よようけん)
【生没】 ?~217年(?歳)
【吉川】 第059話で初登場。
【演義】 第015回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・董襲伝』あり。
黄祖(こうそ)討伐で殊勲を立てた将軍
父母ともに不詳。
董襲は身長が8尺(せき)あり、人並み優れた腕力を備えていた。
196年、孫策(そんさく)が会稽(かいけい)に入った際、董襲は高遷亭(こうせんてい)で出迎え、門下賊曹(もんかぞくそう)に任ぜられる。
このころ山陰(さんいん)で黄龍羅(こうりょうら)と周勃(しゅうぼつ)が数千人の賊徒を集めていたが、董襲は孫策に付き従って討伐にあたり、ふたりとも討ち取った。功により別部司馬(べつぶしば)に任ぜられ、数千人の兵士を預かる。
やがて董襲は揚武都尉(ようぶとい)に昇進し、孫策に付き従って皖(かん)を攻め、さらに尋陽(じんよう)の劉勲(りゅうくん)や江夏(こうか)の黄祖を討伐した。
200年、孫策が急死して孫権(そんけん)が跡を継ぐ。
鄱陽(はよう)の彭虎(ほうこ)らが数万人の不服従民を集めていたので、董襲は淩統(りょうとう)・歩騭(ほしつ)・蔣欽(しょうきん)らとともに討伐にあたり、10日ほどで平定。
功により威越校尉(いえつこうい)に任ぜられ、後に偏将軍(へんしょうぐん)に昇進した。
208年、董襲は孫権の黄祖討伐に参加。このとき黄祖は、2隻の蒙衝(もうしょう。突撃艦。艨艟)を横に並べて沔口(べんこう。夏口〈かこう〉)を守ろうとする。船上に配された1千人から乱射される弩(ど)のため、孫権軍は進めなくなった。
ここで董襲と淩統が100人の決死隊をひきいて蒙衝の下に潜り込み、董襲自ら碇(いかり)を結ぶ太い綱を切り放す。すると蒙衝は勝手に流れ出し、これに乗じた孫権軍が総攻撃を仕掛ける。
黄祖は城門を開いて逃げたものの、孫権軍の兵士(騎兵の馮則〈ふうそく〉だという)に追いつかれて斬られた。翌日には盛大な祝宴が催され、孫権は董襲の手柄も大いにたたえた。
217年、曹操(そうそう)が濡須(じゅしゅ)へ進軍してくると、董襲も孫権に付き従って迎撃に向かう。
董襲は五楼船に乗り込んで守りを固めていたが、夜間に突然の暴風に見舞われる。
側近が走舸(そうか。速く走る小舟)を用意したものの、董襲は五楼船から離れることを承知せず、この夜のうちに船が転覆して亡くなった。
孫権は喪服を着けて葬儀に臨席し、董襲の遺族に手厚い下賜品を与えたという。
管理人「かぶらがわ」より
将軍としての任務の重さがうかがえる董襲の死にざま。
とはいえ、この場合は船を離れたほうがよかったような……。これほどの武人だっただけに惜しいですね。
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