秦宓(しんふく) ※あざなは子勑(しちょく)

【姓名】 秦宓(しんふく) 【あざな】 子勑(しちょく)

【原籍】 広漢郡(こうかんぐん)緜竹県(めんちくけん)

【生没】 ?~226年(?歳)

【吉川】 第248話で初登場。
【演義】 第065回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・秦宓伝』あり。

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作文や弁論に長けた博学の士

父母ともに不詳。

秦宓は若いころから才能と学問があったため、州や郡から招かれたものの、いつも病と称して応じなかった。

214年、劉備(りゅうび)が成都(せいと)で劉璋(りゅうしょう)を降した後、秦宓は広漢太守(こうかんたいしゅ)の夏侯纂(かこうさん)の要請を受け入れて師友祭酒(しゆうさいしゅ)となり、五官掾(ごかんえん)を兼ねる。

夏侯纂は秦宓を大いに敬い、彼のことを仲父(ちゅうほ)とまで呼んだという。やがて秦宓は益州(えきしゅう)から召され、従事祭酒(じゅうじさいしゅ)に任ぜられた。

221年、帝位に即いた劉備が、孫権(そんけん)討伐を強行しようとした際、秦宓は、天与の時機から見て利がないと述べて投獄されたが、後に釈放される。

224年、丞相(じょうしょう)の諸葛亮(しょかつりょう)が益州牧(えきしゅうぼく)を兼ねると、秦宓は別駕(べつが)に抜てきされ、次いで左中郎将(さちゅうろうしょう)・長水校尉(ちょうすいこうい)となった。

この年、孫権の使者として張温(ちょうおん)がやってくると、秦宓は天についての問答を交わし、張温を大いに敬服させた。

その後、秦宓は大司農(だいしのう)に昇進したが、226年に死去した。

管理人「かぶらがわ」より

秦宓は、親子2代にわたって益州を治めた劉焉(りゅうえん)や劉璋に仕えようとせず、劉備が益州を平定した後、ようやく腰を上げました。

226年に亡くなったとき何歳だったのかわかりませんが、本伝には、劉焉に儒学者の任安(じんあん)を推薦する上奏を行ったとあります。

劉焉が194年に亡くなっていることを考えれば、214年に秦宓が師友祭酒・五官掾となったとき、すでに中年だったと思われます。

最後は九卿(きゅうけい)まで昇ってはいますけど、官僚として活躍した期間は十数年にとどまりました。

州や郡からの招きを断るには様々な理由や事情があるはずですが、秦宓の場合は起つのが遅すぎたような――。やはり天の時というのも大切な要素だと思います。

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