宗預(そうよ) ※あざなは徳豔(とくえん)

【姓名】 宗預(そうよ) 【あざな】 徳豔(とくえん)

【原籍】 南陽郡(なんようぐん)安衆県(あんしゅうけん)

【生没】 188?~264年(77歳?)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第105回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・宗預伝』あり。

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呉(ご)へ遣わされた際に孫権(そんけん)の心を捉える

父母ともに不詳。

214年、宗預は張飛(ちょうひ)に付き従って蜀へ入った。

後に建興(けんこう)年間(223~237年)の初めになり、丞相(じょうしょう)の諸葛亮(しょかつりょう)によって主簿(しゅぼ)に任ぜられ、やがて参軍(さんぐん)・右中郎将(ゆうちゅうろうしょう)に昇進した。

234年、諸葛亮が陣没すると、呉は魏(ぎ)がこの機に蜀を奪い取ることを警戒し、巴丘(はきゅう)の守備兵を1万人増やす。蜀のほうでも呉の動きを察知すると、永安(えいあん。白帝〈はくてい〉)の守備兵を増やして非常時に備えた。

宗預が呉へ遣わされた際、孫権は白帝の守備兵が増えた理由を尋ねる。

すると宗預はこう答えた。

「臣(わたくし)が思いますに、東方(呉)が巴丘の守備兵をお増やしになれば、西方(蜀)もまた白帝の守備兵を増やします。これはみな情勢に応じた動きですから、お尋ねになるまでもないでしょう」

孫権は大笑し、宗預の剛直さを嘉(よみ)して大いに厚遇。これまで呉へ使者としてやってきた鄧芝(とうし)や費禕(ひい)に次ぐ敬意を示したという。

宗預は帰国後に侍中(じちゅう)に昇進し、後に尚書(しょうしょ)に転じた。

247年、宗預は屯騎校尉(とんきこうい)に任ぜられる。

このとき車騎将軍(しゃきしょうぐん)の鄧芝が江州(こうしゅう)から帰還し、参内した折に宗預に言った。

「礼(『礼記〈らいき〉』)では、60歳ともなれば軍事に携わらないことになっているが、きみはその年齢で初めて兵を預かることになった。どうしてか?」

宗預は応えて言った。

「あなたは70歳になられるのに、いまだ兵権をお返しになりません。私が60歳で兵を預かれないことがありましょうか?」

鄧芝には驕慢(きょうまん)なところがあり、大将軍(だいしょうぐん)の費禕以下、みな彼を立てていたが、宗預だけは屈することがなかったという。

後に宗預は再び呉へ遣わされたが、孫権は別れ際に彼の手を取って涙し、大粒の真珠1斛(こく)を贈る。

宗預は帰国後に後将軍(こうしょうぐん)・督永安(とくえいあん)に昇進。さらに任地において征西大将軍(せいせいだいしょうぐん)となり、関内侯(かんだいこう)に封ぜられた。

258年、宗預は病気のために成都(せいと)へ召し還されたが、後に鎮軍大将軍(ちんぐんだいしょうぐん)に任ぜられ、(名目上の)兗州刺史(えんしゅうしし)を兼ねる。

261年、諸葛瞻(しょかつせん)が行都護(こうとご)・衛将軍(えいしょうぐん)となり、輔国大将軍(ほこくだいしょうぐん)の董厥(とうけつ)とともに、平尚書事(へいしょうしょじ)として朝廷の諸事を取り仕切ることになった。

このとき廖化(りょうか)が宗預を訪ね、一緒に諸葛瞻のところへ挨拶に行こうと誘う。

だが、宗預はこう言って断った。

「我らは70歳を越え、すでに過分の待遇を受けている。ないものといえば死だけだ。いまさら(わざわざ挨拶に出向き、)年少の輩(やから)に何を求めようというのか?」

263年、劉禅(りゅうぜん)が魏の鄧艾(とうがい)に降伏し、蜀は滅亡する。

翌264年、宗預は廖化とともに洛陽(らくよう)へ移ることになったが、道中で病死した。

管理人「かぶらがわ」より

孫権から高く評価された蜀の使者のひとりとして、鄧芝や費禕とともに名が挙げられている宗預。それぞれ持ち味は違いますが、いずれも自分の言葉を飾るような人物ではありませんでした。

ベテラン同士ながら、廖化との考え方の違いなども、宗預の性格を表したものですね。

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