衛臻(えいしん) ※あざなは公振(こうしん)、魏(ぎ)の長垣敬侯(ちょうえんけいこう)

【姓名】 衛臻(えいしん) 【あざな】 公振(こうしん)

【原籍】 陳留郡(ちんりゅうぐん)襄邑県(じょうゆうけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・衛臻伝』あり。

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曹氏(そうし)4代(曹操〈そうそう〉・曹丕〈そうひ〉・曹叡〈そうえい〉・曹芳〈そうほう〉)に仕え、父同様に忠義を尽くす、長垣敬侯(ちょうえんけいこう)

父は衛茲(えいじ)だが、母は不詳。息子の衛烈(えいれつ)は跡継ぎで、衛京(えいけい)と衛楷(えいかい)も同じく息子。

189年、曹操が陳留で挙兵を計画すると、衛茲は最初の賛同者となり、3千の兵を集めて付き従う。

翌190年、曹操は滎陽(けいよう)で董卓(とうたく)配下の徐栄(じょえい)と戦って敗れ、衛茲は戦死した。以後、曹操は陳留を通るたびに必ず使者を遣り、衛茲を祭ったという。

衛臻は、陳留太守(ちんりゅうたいしゅ)の夏侯惇(かこうとん)から計吏(けいり)に推挙される。

夏侯惇が夫人を宴会に同席させるよう求めたとき、衛臻は「それは末世の風俗で、正しい儀礼に外れております」と述べて捕縛されたものの、やがて赦免。

その後、衛臻は漢(かん)の黄門侍郎(こうもんじろう)となる。

後に衛臻は東郡(とうぐん)の朱越(しゅえつ)に招かれた。

だが衛臻は、ちょうど(213年)献帝(けんてい)の詔(みことのり)を奉じて魏へ貴人(きじん。皇妃の位のひとつ)を迎えに行っており、曹操が上奏して彼を留め置き、参丞相軍事(さんじょうしょうぐんじ)とした。

曹操が丞相を務めていた期間は208~220年。

ここで衛臻が迎えに行った貴人というのは、曹操の3人の娘である曹憲(そうけん)・曹節(そうせつ)・曹華(そうか)のこと。このうち年少の曹華については国元で成長を待つことになったという。

その後、父の旧功がさかのぼって採り上げられ、衛臻は関内侯(かんだいこう)に封ぜられ戸曹掾(こそうえん)に転ずる。

220年2月、曹丕が魏王(ぎおう)を継ぐと、衛臻は散騎常侍(さんきじょうじ)となった。

同年10月、曹丕が帝位に即くと安国亭侯(あんこくていこう)に爵位が進む。

この当時、群臣はみな魏の徳をたたえ、多くの者は前朝の漢をけなした。しかし、衛臻だけは禅譲の意義を明らかにし、漢の美徳を称揚した。

曹丕は、しばしば衛臻のほうに目を遣りながら言う。

「(衛臻は)天下にまれな人物だ。山陽公(さんようこう。漢の献帝。退位後は魏の山陽公となった)と同じ扱いをすべきであろう」

衛臻は尚書(しょうしょ)に昇進し、侍中(じちゅう)・吏部尚書(りぶしょうしょ)に転ずる。

225年、曹丕が広陵(こうりょう)に行幸した際、衛臻は中領軍(ちゅうりょうぐん)を代行して付き従った。

翌226年、曹叡が帝位を継ぐと康郷侯(こうきょうこう)に爵位が進む。

後に衛臻は尚書右僕射(しょうしょゆうぼくや)となり、官吏の選抜を担当する。これまで通り侍中の官位を加えられた。

228年、蜀(しょく)の諸葛亮(しょかつりょう)が天水(てんすい)に侵入すると、衛臻は上奏して述べた。

「奇襲部隊を派遣して散関(さんかん)に入れ、敵の糧道を断つのがよいでしょう」

そこで衛臻が征蜀将軍(せいしょくしょうぐん)・仮節(かせつ)・督諸軍事(とくしょぐんじ)に起用される。

衛臻が長安(ちょうあん)まで進んだところ、諸葛亮は軍を引いた。帰還した衛臻は旧職に復し、光禄大夫(こうろくたいふ)の位を加えられる。

このころ(青龍〈せいりょう〉年間〈233~237年〉)曹叡は宮殿の造営に熱中しており、たびたび衛臻が厳しく諫めた。

237年、司空(しくう)に昇進する。

翌238年、司徒(しと)に昇進する。

曹芳の正始(せいし)年間(240~249年)、衛臻は長垣侯に爵位が進み、封邑(ほうゆう)は1千戸となった。さらに息子ひとりが列侯(れっこう)に封ぜられる。

曹爽(そうそう)が実権を握ると衛臻のもとに夏侯玄(かこうげん)を遣わし、尚書令(しょうしょれい)を兼務してほしいと伝え、弟のために娘を嫁にもらいたいと求めた。

だが、衛臻はいずれも承知しなかった。

やがて衛臻は強く退官を願い出て認められ、一区画の邸宅と特進(とくしん。三公に次ぐ待遇)の位を賜り、三公と同額の恩給が支給される。

その後、衛臻が死去(時期は不明)すると太尉(たいい)の官位を追贈され、敬侯と諡(おくりな)された。息子の衛烈が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

父の衛茲が曹操の挙兵に尽力したため、その息子である衛臻も順調に昇進を重ね、ついには司徒まで昇りました。

ただ、衛臻だけが禅譲の意義を明らかにし、漢の美徳を称揚したという件は、個人的にはあまり評価できません。

そういう態度を取っても、衛臻の立場なら曹丕の不興を買うことはないでしょうし、皆で漢をけなしてしまえば、漢から禅譲を受けた魏も大したものではない、ということになりかねませんから……。

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