邴原(へいげん) ※あざなは根矩(こんく)

【姓名】 邴原(へいげん) 【あざな】 根矩(こんく)

【原籍】 北海郡(ほっかいぐん)朱虚県(しゅきょけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第066回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・邴原伝』あり。

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青州(せいしゅう)に邴(邴原)・鄭(てい。鄭玄〈ていげん。じょうげん〉)の学問あり

父母ともに不詳。父は邴原が11歳の時に亡くなったという。娘がいたが、早くに亡くなった。

若いころ、邴原は同郷の管寧(かんねい)とともに品行高潔としてたたえられ、青州の役所から召されたものの応じなかった。

184年、黄巾(こうきん)の乱が起こると一族郎党を引き連れ、鬱洲山(うつしゅうざん)の山中に住む。

このころ北海国相(ほっかいこくしょう)の孔融(こうゆう)によって有道(ゆうどう。官吏候補者を推挙する際の一科目)に推挙される。

しかし、邴原は黄巾の勢いを見て遼東(りょうとう)へ赴き、同郡の劉政(りゅうせい)とともに武略と勇気の持ち主と評価された。

遼東太守(りょうとうたいしゅ)の公孫度(こうそんたく)は劉政を恐れて憎み、その家族をみな逮捕したが、劉政自身は脱出できた。

追い詰められた劉政が頼ってくると、邴原はひと月余りかくまう。ちょうど東萊(とうらい)の太史慈(たいしじ)が帰郷するところだったので、邴原は劉政の身を託した。

その後、邴原は公孫度を説いて劉政の家族を釈放させ、旅費を用意し故郷へ帰れるようにした。

邴原は遼東に留まったが、1年の間に彼の下に数百家が集まり、遊学の士と講義の声が絶えなかったという。

後に帰郷すると曹操(そうそう)に召され、司空掾(しくうえん)となる。

曹操が司空を務めていた期間は196~208年。

208年、曹操の愛息である倉舒(そうじょ。曹沖〈そうちゅう〉)が亡くなったが、実は邴原も早くに娘を亡くしていた。曹操はふたりの合葬を望んだが、邴原は礼に外れているとして断り、曹操も諦める。

210年、邴原は丞相徴事(じょうしょうちょうじ)に転任した。

後に涼茂(りょうぼう)に代わり、五官中郎将(ごかんちゅうろうしょう。211~217年)の曹丕(そうひ)の長史(ちょうし)を務める。

ところが邴原は門を閉じて引き籠もり、公事でなければ外出しなくなった。曹操が呉(ご)を討伐した際(212年もしくは216年のこと)に随行し、道中で亡くなったという。

管理人「かぶらがわ」より

本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『邴原別伝』には、邴原の苦学ぶりが書かれていました。

邴原は11歳で父を亡くしたため早くから孤児となり、家も貧しかったそうですけど、彼の家の隣に寺子屋があり、その横を通って泣いていたところ、先生から「何を悲しんでいるのか?」と声をかけられます。

邴原はこう答えました。

「勉学をしている者が孤児でないことを羨ましく思い、悲しくなって涙がこぼれたのです」

先生は彼の言葉を聞いて哀れに思い、月謝を取らず教えることにしました。

こうして邴原は、ひと冬の間に『孝経(こうきょう)』と『詩経(しきょう)』を暗唱できるまでになり、年少者の中では目立って優れていたのだと。

やがて成長した邴原は立派な品行を保ち、供を連れずに各地を歩いて学び続けます。

陳留(ちんりゅう)では韓子助(かんしじょ。韓卓〈かんたく〉)を師とし、潁川(えいせん)では陳仲弓(ちんちゅうきゅう。陳寔〈ちんしょく〉)を尊び、汝南(じょなん)では范孟博(はんもうはく。范滂〈はんぼう〉)と交わり、涿郡(たくぐん)では盧子幹(ろしかん。盧植〈ろしょく〉)と親しみました。

邴原の学問は、大変な苦労を経て身に付いたものだったのですね。

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