【姓名】 程普(ていふ) 【あざな】 徳謀(とくぼう)
【原籍】 右北平郡(ゆうほくへいぐん)土垠県(どぎんけん)
【生没】 ?~?年(?歳)
【吉川】 第026話で初登場。
【演義】 第005回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・程普伝』あり。
孫氏(そんし)3代(孫堅〈そんけん〉・孫策〈そんさく〉・孫権〈そんけん〉)に仕え、数々の戦いをくぐり抜けた宿将
父母ともに不詳。程咨(ていし)という息子がいた。
初め程普は州や郡の役人となったが、立派な容貌と将来を見通す力を備えており、人との応対が巧みだった。
やがて孫堅に付き従うようになり、宛(えん)や鄧(とう)で黄巾賊(こうきんぞく)を討伐。190年には陽人(ようじん)で董卓(とうたく)を撃破する。だが、程普は城攻めや野戦で多くの手傷を負ったという。
192年(もしくは191年)、孫堅が戦死すると、程普は跡を継いだ孫策に付き従って淮南(わいなん)へ行き、廬江(ろこう)を攻略。次いで長江(ちょうこう)を渡って東へ向かう。
孫策は、横江(おうこう)や当利(とうり)で劉繇(りゅうよう)配下の張英(ちょうえい)や于麋(うび)らを討ち破り、秣陵(ばつりょう)・湖熟(こじゅく)・句陽(こうよう)・曲阿(きょくあ)の諸城を次々に降す。
程普は一連の戦いで功があったため、兵2千人と騎馬50頭を加増された。
その後、孫策は、烏程(うてい)・石木(せきもく)・波門(はもん)・陵伝(りょうでん)・余杭(よこう)を攻略したが、この一連の戦いでも程普は数多くの手柄を立てた。
196年、孫策が会稽(かいけい)に入ると、程普は呉郡都尉(ごぐんとい)に任ぜられ、銭唐(せんとう)に役所を置く。やがて丹楊都尉(たんようとい)に転じて石城(せきじょう)へ移った。
程普は再び軍勢をひきい、宣城(せんじょう)・涇(けい)・安呉(あんご)・陵陽(りょうよう)・春穀(しゅんこく)で諸賊の討伐にあたり、これらをすべて平定。
孫策が涇県で祖郎(そろう)を攻めた際、大勢の敵兵に囲まれる。このとき程普がひとりの騎兵とともに大声を上げて突入し、孫策を救い出した。
後に程普は盪寇中郎将(とうこうちゅうろうしょう)に任ぜられ、零陵太守(れいりょうたいしゅ)を兼ねる。
199年、程普は、孫策に付き従って尋陽(じんよう)で劉勲(りゅうくん)を討伐し、沙羡(さい)の黄祖(こうそ)攻めから帰還後は石城に駐屯した。
翌200年、孫策が急死すると、程普は張昭(ちょうしょう)らとともに跡を継いだ孫権を補佐し、会稽・呉・丹楊の3郡を巡って不服従者を討伐した。
203年、程普は孫権の江夏(こうか)攻めに加わり、その帰途で豫章(よしょう)から本軍と分かれて楽安(らくあん)を平定。
206年、太史慈(たいしじ)の死去に伴い、程普が代わって海昏(かいこん)の守備を任される。
208年、程普は周瑜(しゅうゆ)とともに左右の督(とく)となり、曹操(そうそう)の大軍を烏林(うりん)で撃破(赤壁〈せきへき〉の戦い)。
さらに南郡(なんぐん)の曹仁(そうじん)を攻め、翌209年には撤退に追いやる。
功により程普は裨将軍(ひしょうぐん)・江夏太守に任ぜられ、封邑(ほうゆう)として4県を賜った。
翌210年、周瑜が死去すると、程普は代わって南郡太守を務めた。
215年、孫権が、劉備(りゅうび)との間で荊州(けいしゅう)を分割統治する取り決めを結ぶと、程普は江夏太守に転じ、盪寇将軍への昇進後に死去(時期は不明)した。
管理人「かぶらがわ」より
本伝によると、孫堅の時代から仕えた古参の部将の中で最年長だった程普は、人々に程公と尊称されていたということです。そして程普自身も他人への援助を惜しまず、広く士大夫と付き合ったのだとも。
彼が関わった城攻めは列挙できないほど多く、それでいて天寿を全うするあたり、皆に尊称されるにふさわしい名将でした。
ただ、孫堅との出会いに関する記事がなかったのは残念。程普は幽州(ゆうしゅう)の出身ですけど、どういう経緯で孫堅に仕えることになったのでしょうね。
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