呂蒙(りょもう)

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【姓名】 呂蒙(りょもう) 【あざな】 子明(しめい)

【原籍】 汝南郡(じょなんぐん)富陂県(ふひけん)

【生没】 178~219年

【吉川】 第135話で初登場。
【演義】 第038回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・呂蒙伝』あり。

成人後に学問を修め、関羽(かんう)から荊州(けいしゅう)を取り返す

父母ともに不詳。呂ソウ(りょそう。王+宗)・呂霸(りょは)・呂睦(りょぼく)という息子がいた。

呂蒙は若いころ江南(こうなん)へ渡り、姉の夫であるトウ当(とうとう。登+阝)のもとに身を寄せた。

トウ当は孫策(そんさく)の部将となり、たびたび山越(さんえつ。江南〈こうなん〉に住んでいた異民族)討伐にあたったが、まだ15、6歳(192~193年ごろ)の呂蒙がこっそりとついていったことがあった。

呂蒙はトウ当に見つかって叱られたものの帰らず、のちに話を聞いた母が罰しようとしても、こう言って聞かなかった。

「いつまでも貧しく卑しいままでいるわけにはいきません。運よく功を立てられたら富貴の身分になれます。それに虎の穴を探らずして、どうして虎の子が得られましょうか?」

トウ当配下の役人に年少の呂蒙を繰り返し辱める者がいたが、ある日、とうとう呂蒙はその者を斬ってしまう。そして同郷の鄭長(ていちょう)の家に逃げ込んだ後、校尉(こうい)の袁雄(えんゆう)のところへ出頭した。

呂蒙のために弁明する者がおり、孫策は呂蒙を呼び出して会ってみたが、その素質を見抜き側近に加える。

それから数年してトウ当が死去すると、張昭(ちょうしょう)の推薦を受け呂蒙が職務を引き継ぎ「別部司馬(べつぶしば)」に任ぜられた。

200年、孫策が急死。呂蒙は跡を継いだ孫権(そんけん)の丹楊(たんよう)討伐に付き従い、戦功を重ねて「平北都尉(へいほくとい)」に任ぜられ「広徳県長(こうとくけんのちょう)」を兼ねた。

208年、呂蒙は孫権に付き従い劉表(りゅうひょう)配下の黄祖(こうそ)討伐に加わり、先鋒として敵の都督(ととく)の陳就(ちんしゅう)を討ち取る。黄祖は城を捨て逃走したが、孫権軍の兵士によって捕らえられた。呂蒙は「横野中郎将(おうやちゅうろうしょう)」に任ぜられ1千万銭(せん)を賜った。

この年、呂蒙は周瑜(しゅうゆ)や程普(ていふ)らとともに西進し、烏林(うりん)で曹操(そうそう)を大破(「赤壁〈せきへき〉の戦い」)。次いで南郡(なんぐん)の曹仁(そうじん)を包囲した。

このとき周瑜は甘寧(かんねい)に命じ先に夷陵(いりょう)を攻略させていたが、曹仁の別動部隊による攻撃を受け危機に陥る。

みな南郡攻めの兵力を割いてまで救援に向かうべきではないとの考えだったが、呂蒙は、淩統(りょうとう)なら10日間は持ちこたえられると推す。

そこで周瑜は淩統に留守を任せ、呂蒙とともに甘寧の救援に向かう。こうして夷陵に到着した日のうちに戦いを交え、半数を超える敵兵を討ち取ることができた。

さらに、呂蒙の献策によりあらかじめ険阻な道に障害物を置いていたため、敵の騎兵は馬を捨てて逃げるしか手がなく、孫権軍は300頭もの軍馬を鹵獲(ろかく)した。

これ以来、孫権軍の士気は倍加し、長江(ちょうこう)を渡り対岸に軍営を移したうえ、曹仁軍と戦い続けた。

翌209年、曹仁らが江陵(こうりょう)から撤退した後、孫権軍が南郡を占拠し荊州を平定。呂蒙は「偏将軍(へんしょうぐん)」に任ぜられ「尋陽県令(じんようけんのれい)」を兼ねた。

翌210年、周瑜が死去し魯粛(ろしゅく)が職務を引き継ぐと、やがて江陵から陸口(りくこう)へ移駐。その途中、呂蒙の軍営を通りかかったので魯粛はあいさつに立ち寄った。

魯粛は日ごろ呂蒙を軽侮していたが、彼が述べた献策の内容に驚き見方を改める。そこで呂蒙の母に目通りを願ったうえ、彼とは友人として付き合うことになった。

のち呂蒙は濡須(じゅしゅ)で曹操軍を防ぐ作戦に参加し、たびたび奇計を献ずる。

また、この地に塢(う。堡塁〈ほるい〉)を築くよう進言して孫権に容れられたが、この「濡須塢」によって守りが堅くなったことから、曹操は軍勢を進められずに引き揚げた。

214年、曹操が朱光(しゅこう)を「廬江太守(ろこうのたいしゅ)」として送り込んでくると、皖(かん)に拠点を置かせて大規模な水田の開墾を進め、鄱陽(はよう)の不服従民の首領らに対し内応工作を仕掛ける。

呂蒙は皖の田地が肥沃であることから曹操軍の急激な勢力拡大を懸念し、こうした状況を詳細に上陳。これを受けて孫権自ら皖城攻略に乗り出す。

呂蒙は甘寧を「升城督(しょうじょうとく。突撃隊長)」に起用し、自身も精鋭をひきいて後に続く。早朝から攻撃を始め、朝の間には勝利を収めた。

この時の功により呂蒙は「廬江太守」に任ぜられ、戦いで得た人馬に加え、別に尋陽の屯田民600戸と官属30人を賜る。

呂蒙が尋陽に戻ると1年もしないうちに廬陵(ろりょう)で反乱が起き、孫権配下のほかの部将たちでは討伐できなかった。しかし、呂蒙が討伐の命を受けると廬陵まで軍勢を進め首謀者を誅殺。それ以外の者たちはみな許し、もとの暮らしに戻らせた。

このころ劉備(りゅうび)が関羽に命じて守りを固めさせ、荊州のひとり占めをもくろむ。

この年、呂蒙は長沙(ちょうさ)・零陵(れいりょう)・桂陽(けいよう)の3郡を取り返すよう命ぜられ、回し文を送り長沙と桂陽の両郡を降す。

ただ零陵太守の郝普(かくふ)だけが降伏しなかったので、彼の旧友であるトウ玄之(とうげんし。登+阝)に説かせて開城させた。

その後、孫権と劉備の間で話がまとまり、湘水(しょうすい)を境に荊州を分割統治することになる。呂蒙は尋陽と陽新(ようしん)の両県を封邑(ほうゆう)として賜った。

翌215年、孫権は合肥(ごうひ)へ遠征したが、引き揚げ時に曹操配下の張遼(ちょうりょう)らの急襲を受ける。呂蒙は淩統とともに命がけで孫権の身を守った。

翌216年、曹操が再び濡須へ大軍を進めると、呂蒙が「督」として指揮を執り、先に築いた濡須塢を頼りに防戦にあたる。

曹操の先鋒が軍営を築き終える前に呂蒙が打って出て撃破したため、曹操は軍勢をまとめて退却。呂蒙は「左護軍(さごぐん)・虎威将軍(こいしょうぐん)」に任ぜられた。

翌217年、魯粛が死去すると呂蒙が代わって陸口に駐屯することになり、魯粛の配下にあった1万余人も呂蒙の指揮下に入る。

さらに呂蒙は「漢昌太守(かんしょうのたいしゅ)」に任ぜられ、下雋(かしゅん)・劉陽(りゅうよう)・漢昌・州陵(しゅうりょう)の4県を封邑として賜った。

呂蒙は陸口に移った当初、表向き手厚い心遣いを見せ、関羽との間に友好的な関係を築く。だが、219年に関羽が樊城(はんじょう)の攻略に向かうと、呂蒙は孫権に願い出て病気を理由に建業(けんぎょう)へ帰還した。

関羽は呂蒙が本当に病気になったものと信じ込み、代わって着任した若い陸遜(りくそん)を軽く見てしまう。そこで公安(こうあん)や南郡(江陵)に残していた守備兵を減らし、樊城攻めに振り向けた。

同年8月、関羽は曹操が送った于禁(うきん)らの援軍を降し、数万の人馬が増えたため食糧が不足。そのため湘関(しょうかん)に蓄えられていた孫権軍の米を奪い取る。

これを聞いた孫権は軍勢を動かし、呂蒙が先鋒となり荊州を目指す。呂蒙は尋陽まで来ると大型の輸送船に精兵を隠し、徴用した民に船を漕(こ)がせ、商人を装い昼夜兼行で進んだ。

そして、関羽が設けた長江(ちょうこう)沿岸の見張り所を急襲し、すべての守備兵を捕らえてしまう。関羽のもとに呂蒙らの動きが伝わることはなかった。

同年閏10月、呂蒙が南郡まで来ると、留守を預かっていた士仁(しじん)や麋芳(びほう)はあっさり降伏。

呂蒙は江陵を占拠し関羽や配下の将士の家族を捕らえたものの、彼らを慰撫(いぶ)して住民たちもいたわる。関羽が遣わした使者をも手厚くもてなしたので、戻った使者から家族の無事と厚遇ぶりを聞くと、関羽配下の軍吏や兵士は戦意を失っていったという。

やがて孤立無援となった関羽は麦城(ばくじょう)へ逃げ込み、さらに西方の漳郷(しょうきょう)へ向かう。この間にも配下の兵士たちは続々と孫権に降伏した。

同年12月、孫権が朱然(しゅぜん)と潘璋(はんしょう)に命じて逃げ道をふさがせると、ほどなく関羽父子は捕らえられ、荊州を平定することができた。

呂蒙は功により「南郡太守」に任ぜられ「孱陵侯(せんりょうこう)」に封ぜられたうえ、1億銭と黄金500斤(きん)を賜る。

ところが、この封爵が沙汰される前に呂蒙は病に倒れた。公安にいた孫権は、彼を迎え取り内殿に寝かせるとあらゆる治療を試み、千金をもって医師を募る。

こうしていったん呂蒙の病状が回復すると、喜んだ孫権は大赦令を下し、群臣はそろって祝辞を献じた。

のち病状が悪化すると孫権自ら呂蒙に付き添い、道士たちに延命の祈とうをさせたりもした。それでもこの年のうちに呂蒙が42歳で死去すると、孫権はひどく悲しみ、音楽を止め食事も質素なものに変えたという。

呂蒙は死に臨み、これまで賜った黄金や珍宝などをすべて蔵に収めさせ、自分が死んだらお上に返還するよう言い残し、葬儀についても節約を旨とするよう命じていた。孫権はこの話を聞き、いっそう悲しみを募らせた。

息子の呂霸が跡を継ぎ、呂蒙の墓を守るための300戸に加え、税金免除の田地50頃(けい)が下賜された。

管理人「かぶらがわ」より

呂蒙(と蔣欽〈しょうきん〉)が孫権に諭されて学問に励むようになり、やがて儒者をもしのぐ学識を身につけたという逸話は、本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く虞溥(ぐふ)の『江表伝(こうひょうでん)』に見えました。

このころの呂蒙は、もう「呉下(呉の街にいたころ)の阿蒙(あもう。蒙ちゃん)」ではなかったのだと。

富貴を夢見た血気盛んなひとりの若者が、主君の言葉に発奮し文武両道の名将へと成長を遂げる。学び始める年齢は関係ないのですね。

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