孫彧(そんいく)

【姓名】 孫彧(そんいく) 【あざな】 ?

【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん)?

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

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呉(ご)の孫権(そんけん)の一族

父母ともに不詳。呉の孫権の分家筋にあたるという。

初め孫彧は呉の部将として、南陵督(なんりょうとく)の徐紹(じょしょう)とともに寿春城(じゅしゅんじょう)を守っていたが、魏(ぎ)に捕らえられた後は(魏に)仕えた。

264年10月、水曹掾(すいそうえん)を務めていた孫彧は、相国参軍事(しょうこくさんぐんじ)だった徐紹とともに魏の曹奐(そうかん)の詔(みことのり)を受け、帰国して孫晧(そんこう)に降伏を勧告するよう命ぜられた。

このとき、別に相国の司馬昭(しばしょう)から手紙を託された。

孫彧は徐紹の副官という位置づけだったが、兼給事黄門侍郎(けんきゅうじこうもんじろう)に任ぜられ、関内侯(かんだいこう)に封ぜられた。

さらに、曹奐から下賜された侍婢(じひ)や、魏に住んでいる家族を連れての帰国が許された。

翌265年3月、孫彧と徐紹は孫晧の返書を預かり、呉の光禄大夫(こうろくたいふ)の紀陟(きちょく)と五官中郎将(ごかんちゅうろうしょう)の弘璆(こうきゅう)を伴い、再び魏へ向かった。

だが、徐紹は濡須(じゅしゅ)まで来たところで孫晧に召し還されて殺害され、その一家眷属(けんぞく)は建安(けんあん)へ強制移住させられた。

これは「もともと呉の臣下である徐紹が中原(ちゅうげん。ここでは魏のこと)を称賛している」と、孫晧に上言した者がいたためである。

なお、その後の孫彧の動静に関する記事はない。

管理人「かぶらがわ」より

孫彧は孫権の支族(分家)というだけで、親子関係も不詳。寿春で部将をやっていたくらいですから、それなりの人物だったのかもしれません。

徐紹については、孫晧の命令で殺害されたという記事があるのに、孫彧のその後に触れた記事はなく、やや微妙なものが残りました。

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