単固(ぜんこ)

【姓名】 単固(ぜんこ) 【あざな】 恭夏(きょうか)

【原籍】 山陽郡(さんようぐん)

【生没】 ?~251年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

父母を立てたがゆえの悲運

父は単伯龍(ぜんはくりょう)、母は夏侯氏(かこうし)。

単固は器量があり、質実な人柄だったという。

曹芳(そうほう)の正始(せいし)年間(240~249年)、兗州刺史(えんしゅうしし)の令狐愚(れいこぐ)は単伯龍と仲が良かったので、その息子の単固を「別駕(べつが)」に任じようとする。

だが単固は州に仕えることを喜ばず、病気を理由に断った。すると令狐愚は礼遇に努め、なお手厚く招こうとする。それでも単固は応じなかった。

母の夏侯氏が言う。

「殿はお前の父と長く親しくされていたからこそ、何度も出仕せよとおっしゃるのです。お前は仕えて当然なのだから、自分から出向かなくてはいけませんよ」

やむなく単固は招きに応じ、兼治中従事(けんちちゅうじゅうじ)の楊康(ようこう)と並んで令狐愚の腹心となった。

249年、太傅(たいふ)の司馬懿(しばい)が曹爽(そうそう)らを誅殺。

すると令狐愚は車騎将軍(しゃきしょうぐん)の王淩(おうりょう。令狐愚の舅〈おじ。母の兄弟〉)と共謀し、若年の曹芳を廃し楚王(そおう)の曹彪(そうひゅう)立て、許昌(きょしょう)に都を置きたいと考える。単固や楊康は立場上、この企てをすべて知っていた。

このとき曹芳は18歳、曹彪は55歳だった。なお曹彪は曹操(そうそう)の息子で、曹丕(そうひ)の異母弟。

この年のうちに令狐愚が病気になり(ほどなく病死)、楊康が司徒(しと)の招聘(しょうへい)に応じて洛陽(らくよう)へ行くと、単固も病気を理由に辞職。都に着いた楊康は陰謀を自白してしまう。

251年、司馬懿は中軍をひきいて水路から王淩の討伐に向かい、ほどなく王淩は自殺に追い込まれた。

司馬懿が寿春(じゅしゅん)まで戻ったとき、単固は目通りする機会があった。司馬懿は、企てを知っていたのかと尋ねたが、単固は知らないと答える。重ねて、令狐愚は謀反を起こしたのかとも聞かれたが、やはり否定してみせた。

ところが楊康の自白によれば、この企てに単固の関与があったことは明らかだった。こうして単固とその家族は廷尉(ていい)の獄につながれ、厳しい取り調べを受けたが、単固は事実無根だと言い張った。そこで司馬懿は楊康も逮捕し、単固と対決させる。

ついに単固は弁明できなくなり、ふたりの言い分からわかった事実が上奏され、獄中で処罰を待つことになった。(死刑該当者の)慣例により母や妻子との面会が許されたものの、単固は母の顔を見ることができない。

母の夏侯氏は息子が恥じ入っていることを察し、あざなで呼びかけた。

「恭夏。お前は州郡のお召しに応ずる気はなかったのに、私が無理強いしたせいです。人の部下となったのだから、お前はあのようにするほかなかった……。わが一門は衰えるでしょうが私は恨みません。どうか本当の気持ちを話しておくれ」

しかし単固は最後まで顔を上げず、また何も話さず、そのまま死んでいったという。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は、『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・王淩伝)に付された「令狐愚伝」の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』などによるもの。

『魏略』では、脂習(ししゅう)・王脩(おうしゅう)・龐淯(ほういく)・文聘(ぶんぺい)・成公英(せいこうえい)・郭憲(かくけん)・単固の7人をまとめて「純固伝(じゅんこでん)」としているそうです。

父が令狐愚と親しかったうえ、母にまで仕官を勧められては、単固は招きに応ずるしかなかったでしょうね。

一方、陰謀を自白したという楊康でしたが……。「列侯(れっこう)」に封ぜられるのではとの期待もむなしく、彼の話に事実と多くの食い違いが出てきたため、結局は単固と一緒に処刑されることになりました。

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