棗祗(そうし)

【姓名】 棗祗(そうし) 【あざな】 ?

【原籍】 潁川郡(えいせんぐん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

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「屯田制(民屯)」の導入に大きく貢献

父母ともに不詳。棗処中(そうしょちゅう)という息子がいた。

もともと棗祗の家は棘姓(きょくせい)だったが、先祖が難を避けたとき棗姓に改めたという。

棗祗は天性の忠誠心と才能を持ち、曹操(そうそう)の挙兵時(189年)から各地の討伐に付き従った。

後に冀州(きしゅう)の袁紹(えんしょう)が棗祗を配下に加えたいと考える。

だが、あくまで棗祗は曹操を頼りとし、その下で東阿県令(とうあけんれい)を務めた。

193年、曹操が徐州(じょしゅう)の陶謙(とうけん)討伐に向かう。

翌194年、張邈(ちょうばく)らが曹操の不在を突いて反旗を翻し、兗州(えんしゅう)に呂布(りょふ)を迎え入れる。

このとき州内の郡県はこぞって張邈らに呼応したが、鄄城(けんじょう)・范(はん)・東阿の3県だけは動揺せず。うち東阿を保持できたのは棗祗の働きによるものだった。

196年、羽林監(うりんかん)の棗祗は韓浩(かんこう)らとともに「屯田制(民屯)」の導入を進言し、曹操に容れられる。棗祗は屯田都尉(とんでんとい)に就任した。

民を募って許(きょ)の近辺で屯田を行わせたところ、100万斛(ごく)の収穫が上がる。この結果を受け、州郡に田官(でんかん)を置くことが定められ、各地に穀物の蓄えができた。

屯田制が大成功を収めたことで、四方を討伐する際に食糧輸送の苦労がなくなり、これにより群賊の討滅、そして天下平定の流れへとつながった。

棗祗は屯田を起こす大功を立てたが、不幸にも早くに亡くなって(時期は不明)しまう。曹操から太守(たいしゅ。陳留太守〈ちんりゅうたいしゅ〉か?)の官位を追贈された。

後に曹操は、棗祗の功績を考えれば侯に封ずるのが当然だったとし、それを引き延ばしにしたことを反省。息子の棗処中に爵位を授け、棗祗の不朽の事業を評価するよう命じたという。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉)とその裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く王沈(おうしん)の『魏書』、さらに『三国志』(魏書・任峻伝〈じんしゅんでん〉)とその裴松之注に引く『魏武故事(ぎぶこじ)』などによるものです。

『魏武故事』には「屯田制(民屯)」を取り入れたころの話がありました。

屯田を始めるにあたり、当時の論者はみな、民が持つ牛の頭数によって穀物を供出させるべきだと主張します。そして、この方法が採用されました。

ですが施行後、棗祗が繰り返し意見を述べます。

「雇った牛の頭数によって穀物を供出させれば、豊作の年でも官に納める穀物は増えません。水害や干害に遭う(年がある)ことを考慮すれば、官には大いに不都合です」

しかし曹操は今のやり方を続け、豊作の年でも改めることはないと考えました。

それでも棗祗が自説に固執したため、曹操の気持ちも揺らぎ、荀彧(じゅんいく)と議論させることにします。

すると、軍祭酒(ぐんさいしゅ)の侯声(こうせい)が言いました。

「官牛の頭数によって穀物を納めさせるのが、官の屯田にふさわしい計であります。棗祗の意見は官に好都合ながら、屯田に携わる民には不都合です」

これを聞くと、荀彧もどうすべきか迷います。一方の棗祗は自信を示し、さらに「分田の術」を主張しました。

『正史三國志群雄銘銘傳 増補・改訂版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 潮書房光人社)によると、「『分田の術』とは田を私牛の所有者と官牛の所有者に分け、前者は軍屯と同じく官に収穫の5割を納め、後者は官に6割を納める取り決めのことである。6割の上納はこの当時、地主に納める小作料とほぼ同率だった」という。

ついに曹操は棗祗の意見を容れ、彼を屯田都尉に任じて実行へ移させたのでした。

もちろん天下統一に強力な軍隊は欠かせませんけど、これに先立つのが食糧の確保。棗祗の功績は武勲に勝るものだと思います。

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