【姓名】 徐琨(じょこん) 【あざな】 ?
【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん)
【生没】 ?~199年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫権徐夫人伝(そんけんじょふじんでん)』に付された「徐琨伝」あり。
孫氏の姻戚として江南(こうなん)の基盤固めに尽力
父は徐真(じょしん)、母は孫氏(孫堅〈そんけん〉の妹)。息子の徐矯(じょきょう)は跡継ぎで、徐祚(じょそ)も同じく息子。娘の徐氏は、初め陸尚(りくしょう)に嫁いだものの死別し、後に孫権に嫁いだ。
徐琨は若くして州や郡に仕えたが、後漢末(ごかんまつ)に天下が乱れると官吏を辞め、孫堅の征伐に付き従って功を立て、偏将軍(へんしょうぐん)に任ぜられる。
192年(もしくは191年)、孫堅の戦死後は孫策(そんさく)に従い、横江(おうこう)の劉繇(りゅうよう)配下の樊能(はんのう)や于麋(うび)らの討伐に参加。当利口(とうりこう)では張英(ちょうえい)を攻めた。
このとき船が少なかったので、孫策は軍勢を留めて補充しようと考える。すると、たまたま軍中にいた徐琨の母が言った。
「揚州(ようしゅう)の役所が多数の水軍を動員してくると、戦況は不利になります。このまま軍勢を留めてはいけません。蘆(ガマ)や葦(アシ)を刈って筏(いかだ)を作り、船の役目を補いながら軍勢を渡せばよいのです」
徐琨が母の意見を上言すると、孫策はすぐさま実行に移し、無事にすべての軍勢を渡河させることができた。
こうして張英を討ち破り、笮融(さくゆう)と劉繇を敗走させ、孫策は江南における基盤を定めた。徐琨は孫策の上表によって丹楊太守(たんようたいしゅ)となる。
197年、袁術(えんじゅつ)が皇帝を僭称(せんしょう)すると、孫策は手紙を送って非難する。だが、袁術は聞く耳を持たなかった。
そこで孫策は長江(ちょうこう)の渡し場を封鎖し、袁術との関係を絶つ。
袁術から広陵太守(こうりょうたいしゅ)に任ぜられていた呉景(ごけい)が戻ってくると、孫策は彼を丹楊太守としたので、徐琨は督軍中郎将(とくぐんちゅうろうしょう)に転ずる。
徐琨は孫策とともに廬江太守(ろこうたいしゅ)の李術(りじゅつ)を討ち破り、平虜将軍(へいりょしょうぐん)に昇進し、広徳侯(こうとくこう)に封ぜられた。
199年、徐琨は孫策に付き従って劉表(りゅうひょう)配下の黄祖(こうそ)を討伐した際、流れ矢を受けて戦死した。
管理人「かぶらがわ」より
孫堅の時代から仕えていた人物には武人が多いと思いますが、徐琨もそのひとりでした。
彼の母の孫氏も作戦に助言していますし、中原(ちゅうげん。黄河〈こうが〉中流域)とはだいぶ気風が違いますね。
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