【姓名】 呉景(ごけい) 【あざな】 ?
【原籍】 呉郡(ごぐん)呉県(ごけん)
【生没】 ?~203年(?歳)
【吉川】 第054話で初登場。
【演義】 第015回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫堅呉夫人伝(そんけんごふじんでん)』に付された「呉景伝」あり。
孫氏の姻戚として草創期に活躍
父母ともに不詳。呉氏(孫堅の正室。武烈皇后〈ぶれつこうごう〉)は姉。息子の呉奮(ごふん)は跡継ぎで、呉祺(ごき)も同じく息子。
呉景は孫堅に付き従って功を立て、騎都尉(きとい)に任ぜられる。
次いで袁術(えんじゅつ)の上表により丹楊太守(たんようたいしゅ)になると、現任の太守である周昕(しゅうきん)を討ち、そのまま郡を占拠した。
192年(もしくは191年)、孫堅の戦死を受けて跡を継いだ孫策(そんさく)が、孫河(そんか)や呂範(りょはん)らとともに呉景を頼ってくる。呉景は彼らと協力し、涇県(けいけん)の山賊の祖郎(そろう)を敗走させた。
そのうち劉繇(りゅうよう)の圧力が強まったため、呉景は北方へ戻り、再び袁術のもとに身を寄せる。
ここで呉景は督軍中郎将(とくぐんちゅうろうしょう)に任ぜられ、孫賁(そんほん)とともに、横江(おうこう)で劉繇配下の樊能(はんのう)と于麋(うび)を討伐。さらに秣陵(ばつりょう)にいた笮融(さくゆう)と薛礼(せつれい)も攻める。
このころ孫策が牛渚(ぎゅうしょ)で負傷し、いったん降伏していた者たちが背く。呉景はこれらの討伐にあたり、みな捕虜とした。
劉繇が豫章(よしょう)に逃げ込むと、呉景は孫策の命を受け、孫賁とともに寿春(じゅしゅん)へ行き、袁術に経過を報告した。
このとき袁術は劉備(りゅうび)と徐州(じょしゅう)を巡って争っており、呉景は広陵太守(こうりょうたいしゅ)に任ぜられた。
197年、袁術が皇帝を僭称(せんしょう)すると、孫策は手紙を送って非難する。だが、袁術は聞く耳を持たなかった。
そこで孫策は長江(ちょうこう)の渡し場を封鎖し、袁術との関係を絶つ。
呉景は使いからこのことを聞くや、すぐに広陵太守の官職を捨てて孫策のもとへ戻り、改めて丹楊太守に任ぜられた。
詔(みことのり)を奉じて議郎(ぎろう)の王誧(おうふ)が南方の巡察にやってくると、彼は呉景を揚武将軍(ようぶしょうぐん)に任ずるよう上表し、これまで通り丹楊太守を兼ねることも認めた。
203年、呉景は在官のまま死去し、息子の呉奮が跡を継いだ。
管理人「かぶらがわ」より
呉景は、姉が孫堅に嫁いだことで人生が一変したと思いますが、彼自身は手堅い将軍だったようです。
初めは袁術の手下扱いだった孫堅や孫策が、実力で勢力圏を拡大していく過程には、ある種の爽快さが感じられます。
その父兄の苦労が孫権(そんけん)の時代に結実しましたが、呉景はそうした飛躍を見ることなく亡くなったのですね。
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