劉璿(りゅうせん) ※あざなは文衡(ぶんこう)

【姓名】 劉璿(りゅうせん) 【あざな】 文衡(ぶんこう)

【原籍】 涿郡(たくぐん)涿県(たくけん)

【生没】 224~264年(41歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第118回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・劉璿伝』あり。

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蜀(しょく)の劉禅(りゅうぜん)の息子

父は劉禅、母は王氏(おうし)。

劉瑶(りゅうよう)・劉琮(りゅうそう)・劉瓚(りゅうさん)・劉諶(りゅうしん)・劉恂(りゅうじゅん)・劉虔(りゅうけん。劉璩〈りゅうきょ〉)は、みな弟。ほかに姉妹が3人はいたことがうかがえる。妃は費禕(ひい)の長女。

劉璿は、238年1月に15歳で皇太子(こうたいし)に立てられた。

その後、263年冬に蜀が滅亡すると、翌264年1月に魏(ぎ)の鍾会(しょうかい)が成都(せいと)で反乱を起こし、このとき劉璿は乱兵に殺害された。

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管理人「かぶらがわ」より

『三国志』(蜀書・霍峻伝〈かくしゅんでん〉)に付された「霍弋伝(かくよくでん)」によると、霍峻の息子の霍弋は劉備(りゅうび)の末年(223年ごろ)に太子舎人(たいししゃじん)に任ぜられ、劉禅の即位後は謁者(えっしゃ)、記室(きしつ)、黄門侍郎(こうもんじろう)を経て、劉璿が皇太子に立てられた際、中庶子(ちゅうしょし。太子中庶子)に任ぜられました。

劉璿は騎馬や射術が好きで、宮中の出入りに節度がなかったといい、霍弋は古代の建前を引き合いに出して諫め、劉璿の人格を磨くことに貢献したということです。

また『三国志』(蜀書・孟光伝〈もうこうでん〉)によると、孟光が郤正(げきせい)に、劉璿の学んでいる書物とその性格や好みについて尋ねた際、郤正は「親に仕えては慎み深く、朝から晩まで怠ることなく、いにしえの世継ぎの風格を備えておいでです。群臣と接するときは仁愛を基本としておられます」と答えたとありました。ただ馬や弓に興じていた、というわけではないようですね。

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