徐晃(じょこう)

【姓名】 徐晃(じょこう) 【あざな】 公明(こうめい)

【原籍】 河東郡(かとうぐん)楊県(ようけん)

【生没】 ?~227年(?歳)

【吉川】 第048話で初登場。
【演義】 第013回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・徐晃伝』あり。

厳格な軍律をもって数多くの武功を立てる。陽平壮侯(ようへいのそうこう)

父母ともに不詳。息子の徐蓋(じょがい)は跡継ぎ。

徐晃は初め郡吏となり、車騎将軍(しゃきしょうぐん)の楊奉(ようほう)に付き従い、賊の討伐で手柄を立てて「騎都尉(きとい)」に任ぜられた。

楊奉が献帝(けんてい)から「車騎将軍」に任ぜられたのは、196年8月のこと。

192年、李傕(りかく)と郭シ(かくし。氵+巳)が長安(ちょうあん)を混乱に陥れると、徐晃は楊奉に、献帝とともに洛陽(らくよう)へ帰るよう進言する。

195年、献帝一行が長安を離れ、黄河(こうが)を渡り安邑(あんゆう)まで来ると、徐晃は「都亭侯(とていこう)」に封ぜられた。

翌196年7月、献帝は洛陽にたどり着いたものの、韓暹(かんせん)と董承(とうしょう)が繰り返し争う。この様子を見た徐晃は楊奉に、曹操(そうそう)に帰服するよう勧める。楊奉も容れるつもりだったが、後になって気が変わった。

同年10月、梁(りょう)の楊奉の軍営が曹操に撃破されると、徐晃はそのまま帰服した。徐晃は兵を与えられ、巻(けん)や原武(げんぶ)にいた賊軍を討伐。これを撃破し「裨将軍(ひしょうぐん)」に任ぜられる。

198年、曹操の呂布(りょふ)討伐に付き従い、別軍として呂布配下の趙庶(ちょうしょ)や李鄒(りすう)らを降す。

翌199年、史渙(しかん)とともに、河内(かだい)で眭固(すいこ)を斬る。

翌200年、曹操に付き従い徐州(じょしゅう)の劉備(りゅうび)を撃破。次いで袁紹(えんしょう)配下の顔良(がんりょう)を討ち破る。

さらに徐晃は白馬(はくば)の敵営を攻め落として延津(えんしん)へ進み、同じく袁紹配下の文醜(ぶんしゅう)も撃破し「偏将軍(へんしょうぐん)」に昇進した。

その後、曹洪(そうこう)とともにイン彊(いんきょう。氵+隱)の賊の祝臂(しゅくひ)を討ち破る。

また史渙とともに、故市(こし)で袁紹軍の輜重車(しちょうしゃ)を攻撃。多大な戦功を上げ「都亭侯(ここはなぜか先〈195年〉の記述と重複している)」に封ぜられた。

204年、曹操が鄴(ぎょう)を包囲し邯鄲(かんたん)を攻略した後、易陽県令(えきようけんれい)の韓範(かんはん)は城を挙げて降ると偽り、実際には抵抗する。

命を受け徐晃が易陽に向かったものの、彼は到着しても攻撃を始めず、城内へ矢文を射込んで事の結末を説く。韓範は抵抗したことを後悔し、すぐに降伏した。さらに徐晃は別軍として毛城(もうじょう)を攻め、伏兵を使い3か所の敵営を撃破する。

翌205年、南皮(なんぴ)の袁譚(えんたん)討伐に付き従った後、平原(へいげん)の賊徒に勝利。

207年、柳城(りゅうじょう)の袁尚(えんしょう)討伐に付き従い、功により「横野将軍(おうやしょうぐん)」に昇進した。

翌208年、曹操の荊州(けいしゅう)討伐に付き従い、別軍として樊(はん)に駐屯。中廬(ちゅうろ)・臨沮(りんしょ)・宣城(せんじょう)の賊を討伐した。

続いて満寵(まんちょう)とともに、漢津(かんしん)で劉備配下の関羽(かんう)を討伐。そして曹仁(そうじん)とともに、江陵(こうりょう)で孫権(そんけん)配下の周瑜(しゅうゆ)らを防ぐ。

翌209年、1年を超える戦いの末、江陵から撤退。

翌210年、太原(たいげん)の逆徒を討伐し大陵(たいりょう)を包囲。これを陥落させ、賊の頭目の商曜(しょうよう)を斬る。

『三国志』(魏書・武帝紀〈ぶていぎ〉)には建安(けんあん)16(211)年のことだとある。

翌211年、韓遂(かんすい)と馬超(ばちょう)らが関右(かんゆう。関中〈かんちゅう〉)で反乱を起こすと、徐晃は汾陰(ふんいん)に駐屯し河東の鎮撫(ちんぶ)にあたった。この際に牛と酒を賜り、先祖の墓を祭る。

曹操は潼関(とうかん)まで来たが、黄河を渡れるか心配し、徐晃を召して尋ねた。徐晃は敵の別軍が蒲阪(ほはん)を守っていることに触れ、精兵を貸してもらえれば蒲阪津(ほはんしん)を渡り、先に軍営を設置し敵の背後を断つと答える。

徐晃は歩騎4千をひきいて渡河したが、塹壕(ざんごう)や木柵が完成しないうちに、賊の梁興(りょうこう)ひきいる歩騎5千に夜襲される。徐晃がこれを撃破したため、曹操も軍勢をひきいての渡河に成功。こうして馬超らを討ち破ることができた。

さらに徐晃は夏侯淵(かこうえん)とともに、隃麋(ゆび)や汧(けん)にいる種々の氐族(ていぞく)を平定し、安定(あんてい)で曹操と合流。曹操は鄴に帰還したが、徐晃は引き続き夏侯淵らとともに、鄜(ふ)や夏陽(かよう)に残っている賊徒の平定にあたった。

翌212年、徐晃は梁興を斬り、3千余家を降す。

215年、曹操の張魯(ちょうろ)討伐に付き従った際、別軍として櫝(とく)や仇夷(きゅうい)にいる種々の氐族を討伐。徐晃はこれらをすべて降伏させ「平寇将軍(へいこうしょうぐん)」に昇進した。

また、将軍の張順(ちょうじゅん)の包囲を解き、賊の陳福(ちんふく)らの屯営30か所を撃破した。曹操が鄴に帰還した後、徐晃は夏侯淵らとともにとどまり、陽平で劉備を防ぐ。

217年?、劉備が陳式(ちんしょく)らを遣わし、馬鳴閣(ばめいかく)街道を断ち切ろうとしたものの、別軍として迎撃に出た徐晃が大破。曹操は話を聞き非常に喜び、徐晃に「節(せつ。権限を示すしるし)」を授けたうえ、その功を布告してたたえた。

219年、夏侯淵が陽平で戦死。曹操は自ら出向いて劉備と対峙(たいじ)するも、やがて漢中(かんちゅう)から諸軍を引き揚げる。

のち徐晃は曹仁を助けて関羽討伐にあたり、宛(えん)に駐屯。漢江(かんこう。漢水〈かんすい〉)の氾濫により于禁(うきん)らの軍勢が水没してしまうと、樊の曹仁と襄陽(じょうよう)の呂常(りょじょう)が関羽に包囲された。

徐晃の配下には新兵が多く、まだ関羽と勝ち負けを争うのは難しかったので、前進して陽陵陂(ようりょうひ)にとどまる。曹操の命を受けた徐商(じょしょう)と呂建(りょけん)らが合流すると、徐晃は敵の偃城(えんじょう)を目指す。

到着した徐晃が塹壕を掘らせ、背後を断つように見せかけたところ、関羽は軍営を焼き払って退却。徐晃は偃城を手に入れることができた。

徐晃は陣を連ねて徐々に前進し、敵陣から3丈(じょう)ほど離れた所まで迫る。このころ彼のもとには、殷署(いんしょ)や朱蓋(しゅがい)ら12の軍営の兵が駆けつけていた。

敵営は囲頭(いとう)と四冢(しちょう)にあったが、徐晃は囲頭を攻めると宣伝させながらひそかに四冢を攻めた。関羽は四冢の危急を知ると、自ら歩騎5千をひきいて駆けつける。

徐晃はこれを討ち破り、そのまま敵の包囲陣に突入して大勝。敵兵の中には自ら沔水(べんすい)に身を投ずる者もあったという。

徐晃が摩陂(まひ)に凱旋(がいせん)すると、曹操は7里(り)先まで出迎え大宴を催す。その際に曹操は諸軍を巡察したが、みな陣を離れ見物している中で、徐晃の軍だけは整然としており、将兵は軍営にとどまり動かなかった。

曹操は感嘆して言った。

「徐将軍には周亜父(しゅうあふ。前漢〈ぜんかん〉時代の名将)の風格があるな」

翌220年2月、曹丕(そうひ)が「魏王(ぎおう)」を継ぐと、徐晃は「右将軍(ゆうしょうぐん)」に昇進し「逯郷侯(たいきょうこう)」に爵位が進む。

同年10月、曹丕が帝位に即くと、さらに「楊侯」に爵位が進んだ。

徐晃は夏侯尚(かこうしょう)とともに、上庸(じょうよう)で劉備配下の劉封(りゅうほう)を撃破する。そして「陽平侯」に移封され、この地を守ることになった。

226年、曹叡(そうえい)が帝位を継ぐと、徐晃は襄陽で孫権配下の諸葛瑾(しょかつきん)を撃退。200戸の加増を受け、以前と合わせて封邑(ほうゆう)は3100戸となる。

やがて病が重くなると、徐晃は時節の衣服で身を包んでくれと遺言。翌227年に死去して「壮侯」と諡(おくりな)され、息子の徐蓋が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

本伝には以下のようにありました。

「徐晃は遠慮深く慎重な性格で、軍をひきいるときは必ず遠くまで物見を出し、あらかじめ勝てなかった場合の配慮をしたうえで戦った。一方で逃走する敵を追い勝利を争うときには、兵たちは食事をする暇もなかった」

「彼はいつも嘆息して言っていた。『古人は明君に巡り会えないことに苦しんだが、いま私は幸運にも明君に巡り会っている。当然、功績を立て、自分の力を尽くさなければならない。私個人の名声など、どうして問題にしようか』」

また、徐晃は最後までむやみに交際範囲を広げたり、後ろ盾を作ったりしなかったということです。私利に興味を示さず、主君に忠義を尽くした態度は立派。楊奉は徐晃のような逸材を抱えていながら、重要な判断を誤ってしまいましたね。

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