丁謐(ていひつ) ※あざなは彦靖(げんせい)

【姓名】 丁謐(ていひつ) 【あざな】 彦靖(げんせい)

【原籍】 沛国(はいこく)

【生没】 ?~249年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第106回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・曹真伝(そうしんでん)』に付された「丁謐伝」あり。

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曹爽(そうそう)の取り巻きのひとり、落書で癌(がん)に例えられる

父は丁斐(ていひ)だが、母は不詳。

丁謐は若いころ積極的に人と交際しようとせず、ひたすら書物を読みあさっていた。性格は沈着剛毅でなかなか才略があったという。

曹叡(そうえい)の太和(たいわ)年間(227~233年)には鄴(ぎょう)で暮らし、いつも人の空き家を借りて住んでいた。

あるとき諸王のひとりが、すでに丁謐が借りたことを知らず、彼の家の門を開けて無遠慮に上がり込んでくる。丁謐は横になったまま起き上がりもせず、下男を呼びつけて王を立ち去らせるよう命じた。

曹叡は王から話を聞くと、丁謐を逮捕し鄴で投獄。だが、彼が功臣の息子だったため罪を許して釈放した。

後に曹叡は、丁謐には父の面影があると聞いて召し寄せ、度支郎中(たくしろうちゅう)に任じた。

当時、曹爽は武衛将軍(ぶえいしょうぐん)だったが、たびたび曹叡に丁謐を重用するよう勧めた。

239年に曹叡が崩じ、曹芳(そうほう)が帝位を継ぐと、曹爽は実権を握って政治を補佐した。

丁謐は曹爽によって散騎常侍(さんきじょうじ)に抜てきされ、続いて尚書(しょうしょ)に栄転する。

丁謐は外面は鷹揚(おうよう)そうに見えながら、内面は猜疑心(さいぎしん)が強かった。

また、内心で貴人を軽蔑して粗略な扱いが多く、同じ位階にあった何晏(かあん)や鄧颺(とうよう)らをみな大した者ではないと考えていた。

それでも勢力のある曹爽にだけはへりくだって仕え、曹爽のほうも丁謐を敬い、彼の意見には必ず従ったという。

郭太后(かくたいこう。明元郭皇后〈めいげんかくこうごう〉)を永寧宮(えいねいきゅう)から追い出して別の宮殿に住まわせたり、燕王(えんおう)の曹宇(そうう)を洛陽(らくよう)から北方の鄴へ行かせたり、文欽(ぶんきん)を淮南(わいなん)に帰還させたのは、みな丁謐の画策だった。こういう事情から、司馬懿(しばい)は丁謐を深く憎んでいた。

249年、その司馬懿がクーデターを発動(正始〈せいし〉の政変)。丁謐は曹爽兄弟やほかの取り巻きたちとともに大逆不道の罪で処刑され、三族(父母・妻子・兄弟姉妹、異説もある)も皆殺しになった。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた丁謐の経歴については、ほぼ『三国志』(魏書・曹真伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』によるものです。

そこには当時の落書の話も書かれていました。「台閣(尚書台)には3匹の犬がいる。2匹は人にかみつき、そばにも寄れぬ。もう1匹は黙(もく)にくっつき、癌となっている」というもの。

「3匹の犬」は何晏・鄧颺・丁謐を指しており、「黙」は曹爽の幼時のあざな。そして「3匹の犬はみな人にかみつこうとするが、中でも丁謐が一番ひどい」という意味なのだと。

丁謐の父の丁斐は同郷だったこともあり、曹操から特にかわいがられたひとりでした。

何晏・鄧颺・丁謐らはみな家門を笠に着るだけで……。曹爽の取り巻きは同じようなタイプの人物ばかりですね。

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