薛珝(せつく)

【姓名】 薛珝(せつく) 【あざな】 ?

【原籍】 沛郡(はいぐん)竹邑県(ちくゆうけん)

【生没】 ?~271年?(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第113回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・薛綜伝(せつそうでん)』に付された「薛珝伝」あり。

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蜀(しょく)の滅亡が近いと言い当てる

父は薛綜だが、母は不詳。薛瑩(せつえい)は弟。

薛珝は威南将軍(いなんしょうぐん)まで昇進したが、269年の交阯(こうし。交趾)遠征の帰途(271年?)で病死した。

管理人「かぶらがわ」より

本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く習鑿歯(しゅうさくし)の『漢晋春秋(かんしんしゅんじゅう)』によると、薛珝は孫休(そんきゅう)の時代(258~264年)に五官中郎将(ごかんちゅうろうしょう)となり、馬を求めて蜀へ遣わされました。

帰国後に孫休から蜀の政情について問われると、薛珝はこう答えます。

「主君(劉禅〈りゅうぜん〉)は暗愚で己の過ちに気づかず、臣下は保身に走っております。朝廷においても正論が聞かれず、民の顔色は冴えませんでした」

「また、私はこのような話も聞いております。『小鳥が人家に巣を作り、親子ともども楽しげに、これでもう安心だと思っていたところ、煙突が壊れて棟木が燃えだした。ところが小鳥たちは、なお楽しげで、災いが迫っていることを知らなかった』と。これは今の蜀のことを言っているのです」

薛珝が見てきた通り、263年に劉禅は魏(ぎ)に降伏し、蜀は滅亡してしまいました。

このほか『三国志』(呉書・孫和伝〈そんかでん〉)には、267年7月、守大匠(しゅたいしょう。将作大匠〈しょうさくたいしょう〉代行)の薛珝が正殿と奥殿からなる(孫和の)廟(びょう)を建立し、孫晧(そんこう)が清廟(せいびょう)と名付けたことが見えています。

ですが、具体的な事績についての記事もほとんどなく、薛珝がどのような人物だったのかはよくわかりませんでした。

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