【姓名】 華歆(かきん) 【あざな】 子魚(しぎょ)
【原籍】 平原郡(へいげんぐん)高唐県(こうとうけん)
【生没】 157~231年(75歳)
【吉川】 第176話で初登場。
【演義】 第029回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・華歆伝』あり。
魏の元勲ながら真の人物像はわからず、博平敬侯(はくへいけいこう)
父母ともに不詳。華緝(かしゅう)は弟。息子の華表(かひょう)は跡継ぎで、華博(かはく)と華周(かしゅう)も同じく息子。
華歆の郷里の高唐は大きな街だったので、役人はみな盛り場を遊び歩いていた。だが、華歆は役人になると、休日も家の門を閉ざした。彼の議論は公平で他人を傷つけることがなかったという。
冀州刺史(きしゅうしし)の王芬(おうふん)が実力者らと霊帝(れいてい)の廃位を企てた際、華歆や陶丘洪(とうきゅうこう)を密かに呼び寄せる。
これに応じて陶丘洪は出かけようとしたが、華歆はきっと成功しないと言い、行ってはいけないと忠告する。
そこで陶丘洪も行くのをやめたが、後に王芬らの計画は失敗に終わった。
華歆は孝廉(こうれん)に推挙されて郎中(ろうちゅう)に任ぜられたものの、病気のため辞職。
189年、霊帝が崩御(ほうぎょ)し、大将軍(だいしょうぐん)の何進(かしん)が政治を補佐するようになると、鄭泰(ていたい)や荀攸(じゅんゆう)らとともに華歆も召された。華歆は洛陽(らくよう)へ赴き、尚書郎(しょうしょろう)となる。
翌190年、董卓(とうたく)が献帝(けんてい)を長安(ちょうあん)に遷(うつ)すと、華歆は地方へ出て下邽県令(かけいけんれい)になりたいと願い出た。
しかし、病気のために赴任できず、結局は藍田(らんでん)を通って南陽(なんよう)へ行く。
当時、袁術(えんじゅつ)が(南陽郡の)穣(じょう)におり、華歆を引き留める。
華歆は軍を進めて董卓を討伐するよう勧めたが、袁術に容れられず、見切りをつけて去ろうと考えた。
このころ献帝(実質的には董卓)は関東(かんとう。函谷関〈かんこくかん〉以東の地域)の安定を図るべく、太傅(たいふ)の馬日磾(ばじってい)を遣わしていた。
華歆は馬日磾に召されて掾(えん)となり、彼に随行して徐州(じょしゅう)まで来ると、詔(みことのり)によって豫章太守(よしょうたいしゅ)に任ぜられる。
華歆の行政は落ち着きがあり、煩雑さがなかったので、大いに官民の支持を受けたという。
196年、孫策(そんさく)が会稽太守(かいけいたいしゅ)の王朗(おうろう)を降し、豫章に迫る。
華歆は孫策の用兵巧者ぶりを知っていたので抗戦せず、隠士が用いる頭巾をかぶって奉迎した。孫策も華歆が長者(ちょうしゃ。徳のある人)だったことから、上賓の礼をもって待遇する。
200年、孫策が亡くなると、官渡(かんと)にいた曹操(そうそう)は華歆を召し出すよう献帝に上奏した。孫権(そんけん)は引き留めようとしたが、華歆に説かれて行くことを許す。
華歆を見送る賓客や旧友は1千余人もいて、餞別(せんべつ)は数百金に上った。彼は断らずにすべて受け取ったが、密かに目印を付けておく。そして出発の時になると、贈られた金品を集めて賓客に告げた。
「皆さんのお気持ちを拒みたくなかったので、受け取った物が多くなってしまいました。1台の車で遠く旅することを思うと、財宝を持っているとかえって災難になるかもしれません。どうかお察しください」
そこで、それぞれ贈った金品を引き取ることになったが、みな華歆の徳義に感服した。
こうして華歆は曹操のもとへ行き、議郎(ぎろう)に任ぜられて参司空軍事(さんしくうぐんじ)となる。
★曹操が司空を務めていた期間は196~208年。
その後は中央に入り、尚書を経て侍中(じちゅう)に転じ、212年に荀彧(じゅんいく)が死去すると、代わって尚書令(しょうしょれい)を務めた。
この年、曹操が孫権討伐に向かうと、その軍師も務める。
翌213年、魏が建国されると御史大夫(ぎょしたいふ)に就任。
220年2月、曹丕(そうひ)が魏王(ぎおう)を継ぐと、相国(しょうこく)に任ぜられたうえ安楽郷侯(あんらくきょうこう)に封ぜられる。
同年10月、曹丕が帝位に即くと、位を改められて司徒(しと)となった。
★この年、相国を改称して司徒としたもの。
華歆は平素から清貧に甘んじ、俸禄や下賜品は親戚や旧知に振る舞い、家にはわずかの蓄えもなかったという。
公卿(こうけい)に官有の女奴隷(犯罪者の家族)を賜ったこともあったが、華歆だけは彼女らを解放して嫁に遣った。
曹丕は感嘆のあまり詔を下し、特に御衣を授け、華歆の妻子や一族の男女全員に衣服を作ってやる。
223年、公卿に詔が下り、独行の君子(世俗に左右されない立派な人物)を推挙することになった。
この際、華歆は管寧(かんねい)を推挙し、曹丕は安車(あんしゃ。老人や女性用の座って乗る車)を用意して召し寄せた。
226年、曹叡(そうえい)が帝位を継ぐと華歆は太尉(たいい)に転じ、博平侯に爵位が進んで500戸の加増を受ける。以前と合わせて封邑(ほうゆう)は1,300戸となった。
華歆は病気を理由に、辞職して管寧に地位を譲りたいと願い出るが、曹叡は許可せず。
230年7月、曹叡が大司馬(だいしば)の曹真(そうしん)に命じ、子午道(しごどう)から蜀(しょく)の討伐に向かわせる。
華歆は上奏し、「飢えや寒さなどの災難がなく、民に故郷を離れる気持ちを起こさせなければ天下にとって幸甚。二賊(蜀と呉〈ご〉)に付け込む隙はジッと待っておればよいでしょう」と述べた。
同年8月、漢中(かんちゅう)一帯が大雨に見舞われると、9月に詔が下され、曹真は軍を引き揚げて帰還。
翌231年、華歆が75歳で死去すると敬侯と諡(おくりな)され、息子の華表が跡を継いだ。
管理人「かぶらがわ」より
本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く華嶠(かきょう)の『(華氏)譜叙(ふじょ)』には、以下のようにありました。
華歆が孫策に上賓として礼遇されていたころ、江南(こうなん)に避難してくる士大夫が多かった。そうした人々はみな華歆の下風に立ち、遥かに彼を仰ぎ慕った。
孫策が大きな会合を催したとき、思い切って華歆より先に発言する者はおらず、華歆が手洗いに立つとガヤガヤと議論した。
また、華歆はよく痛飲したが、1石(せき)余り飲んでも乱れない。皆がそれとなく見ていると、衣冠を整える様子だけが普段と違っていた。そこで江南では、彼のことを「華独坐(かどくざ)」と称した。
『三国志演義』や吉川『三国志』における華歆は「極悪人」のように描かれています。
もちろん創作された部分も多いと思いますが、本伝や上で挙げた『(華氏)譜叙』の描くそれとは大きく異なっています。
『(華氏)譜叙』を著した華嶠は華歆の孫(華表の息子)ですから、その記述ぶりも納得できますけど……。(陳寿〈ちんじゅ〉が著した)本伝のほうもかなり持ち上げぎみなのです。
華歆の子孫は晋代(しんだい)でも大いに栄えたということなので、このあたりも影響しているのでしょうか? 真の人物像がイマイチつかめない感じがしました。
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