諸葛瞻(しょかつせん) ※あざなは思遠(しえん)

【姓名】 諸葛瞻(しょかつせん) 【あざな】 思遠(しえん)

【原籍】 琅邪郡(ろうやぐん)陽都県(ようとけん)

【生没】 227~263年(37歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第105回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・諸葛亮伝(しょかつりょうでん)』に付された「諸葛瞻伝」あり。

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父の余光により実質以上の評判を得るも、蜀に殉ずる形で戦死

父は諸葛亮だが、母は不詳。諸葛瑾(しょかつきん)は伯父で、諸葛均(しょかつきん)は叔父。

諸葛瑾の次男で、諸葛亮の養子となった諸葛喬(しょかつきょう)は兄にあたる。諸葛尚(しょかつしょう)と諸葛京(しょかつけい)という息子がいた。

234年、諸葛瞻は、諸葛亮が死去したため跡を継ぎ、武郷侯(ぶきょうこう)に封ぜられた。なお、それ以前の228年には、兄の諸葛喬も死去している。

243年、諸葛瞻は17歳で劉禅(りゅうぜん)の娘を娶(めと)り、騎都尉(きとい)に任ぜられた。

翌244年、羽林中郎将(うりんちゅうろうしょう)となったのを手始めに、射声校尉(しゃせいこうい)、侍中(じちゅう)、尚書(しょうしょ)、尚書僕射(しょうしょぼくや)と累進し、軍師将軍(ぐんししょうぐん)の官位を加えられる。

諸葛瞻は書画が巧みなうえ、記憶力も優れており、蜀の人々は諸葛亮を追慕して彼の才能を愛した。

朝廷に小さな善政や佳事があると、それが彼の言いだしたことでなくても、みな「葛侯(諸葛瞻)がなさったことだ」と言い合う。そのため実質以上のよい評判が立ったという。

261年、諸葛瞻は行都護(こうとご)・衛将軍(えいしょうぐん)になり、輔国大将軍(ほこくだいしょうぐん)の董厥(とうけつ)とともに平尚書事(へいしょうしょじ)を務めた。

263年冬、魏(ぎ)の征西将軍(せいせいしょうぐん)の鄧艾(とうがい)が蜀へ侵攻し、陰平(いんぺい)から景谷道(けいこくどう)を進んでくる。

諸葛瞻は諸軍をひきいて涪(ふう)にあったが、先鋒の部隊が敗れたため退却し、緜竹(めんちく)を固めた。

鄧艾から手紙が届き、降伏すれば琅邪王に封ぜられるよう上表すると伝えられたうえ、翻意を促される。

だが諸葛瞻は激怒して、鄧艾の使いを斬った。こうして合戦となったものの蜀軍は大敗し、諸葛瞻は息子の諸葛尚ともども前線で戦死する。このとき37歳だった。

管理人「かぶらがわ」より

父の余光によって、息子に実質以上の評判が立つことは現代でも珍しくありません。とはいえ諸葛瞻は無能ではなかったですし、諸葛亮の息子として恥じない散り方をしたとも思います。

244年に羽林中郎将となった後の累進の経過がわかりにくかったのですけど、『三国志』(蜀書・張嶷伝〈ちょうぎょくでん〉)に、張嶷が呉(ご)の諸葛恪(しょかつかく。諸葛瞻の従兄)に手紙を送った件が見えており、これが253年のことと想定できるうえ、その直前に侍中の諸葛瞻の名が出てくるので、彼が侍中だった時期と重なっていることもうかがえます。

なお、緜竹における蜀軍の大敗時、諸葛瞻父子に加えて、張遵(ちょうじゅん)・黄崇(こうすう)・李球(りきゅう)らも戦死しました。

張遵は張苞(ちょうほう)の息子で張飛(ちょうひ)の孫。黄崇は黄権(こうけん)の息子。李球は李恢(りかい)の弟です。彼らは蜀の最後の意地を見せた面々として評価できますね。

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