呉質(ごしつ) ※あざなは季重(きじゅう)

【姓名】 呉質(ごしつ) 【あざな】 季重(きじゅう)

【原籍】 済陰郡(せいいんぐん)

【生没】 177~230年(54歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第072回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・王粲伝(おうさんでん)』に付された「呉質伝」あり。

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傲慢な振る舞いにより、初め醜侯(しゅうこう)と諡(おくりな)されたが威侯(いこう)に改まる

父母ともに不詳。息子の呉応(ごおう)は跡継ぎ。

呉質は才能と学識を兼ね備えていたことから、曹丕(そうひ)や諸侯の礼遇や寵愛を受けた。彼のほうでも曹氏兄弟の間をうまく立ち回ったという。

211年、曹丕が五官中郎将(ごかんちゅうろうしょう)になると、呉質は劉楨(りゅうてい)らとともに客として出入りした。

その後、曹丕が文学(ぶんがく。官名)らを招いて酒宴を催した際、座中が盛り上がっているところへ、曹丕の命を受けた夫人の甄氏(しんし)が挨拶に出てくる。

みな平伏したものの、劉楨だけは夫人を直視する。そのため不敬罪で逮捕され、懲役刑に服すことになった。この際、呉質も地方に出されて朝歌県長(ちょうかけんちょう)となる。

215年、曹操(そうそう)が大軍をひきいて張魯(ちょうろ)討伐に向かうと、孟津(もうしん)の小城にいた曹丕から手紙が届く。

この手紙には、皆と一緒に南皮(なんぴ)で遊楽した思い出を懐かしむ気持ちが記されていた。

後に呉質は元城県令(げんじょうけんれい)に昇進する。

218年に届いた別の手紙では、前年に疫病の大流行で亡くなった徐幹(じょかん)・応瑒(おうちょう)・陳琳(ちんりん)・劉楨を悼み、これに阮瑀(げんう)と王粲も加えた6人の人柄や文章について論評されていた。

220年2月、曹丕が魏王(ぎおう)を継ぐと、また呉質に手紙を送る。

この手紙には、南皮での遊楽に参加した者のうち、生きているのは3人(曹真〈そうしん〉・曹休〈そうきゅう〉・呉質)だけになったとあった。

また、呉質だけが依然として長史(ちょうし)のままであることを、(自分が十分にいたわっていないからだと)恥ずかしく思う気持ちが記されていた。

同年10月、曹丕が帝位に即くと、呉質は北中郎将(ほくちゅうろうしょう)に任ぜられ、列侯(れっこう)に封ぜられる。

さらに使持節(しじせつ)・督幽幷諸軍事(とくゆうへいしょぐんじ)に抜てきされ、信都(しんと)に政庁を置いた。

もともと呉質は権勢のない家柄の出身だったので、若いころから高貴な家に出入りしてばかりいて、郷里のことを気にかけなかった。

そのため、すでに出仕していたにもかかわらず、郷里では呉質を士人として認めようとしなかったという。

226年、曹叡(そうえい)が帝位を継ぐと、230年、呉質は入朝して侍中(じちゅう)に任ぜられる。

あるとき呉質は、いまだ本籍の郡の人々に受け入れてもらえない不満を、司徒(しと。232~236年)の董昭(とうしょう)に語った。

「私は郷里の奴らに小便を引っかけてやりたいのです」

すると董昭が応えた。

「やめておけ。私はもう80歳と年を取ったから、きみの小便のために穴を掘ってやることはできないからな」

董昭は済陰郡定陶県(ていとうけん)の出身(呉質と同郡)。彼は236年に81歳で亡くなっており、80歳の時の話なら青龍(せいりょう)3(235)年のことになるはず。だが、呉質は230年に亡くなったということなので、没年が正しいなら董昭の話と合わない部分が出てくる。

なお、董昭は232年に正式な司徒となったが、これに先立つ230年から行司徒事(こうしとじ。司徒代行)を務めていた。なので、230年の時点で彼を司徒としていることは納得できるが、80歳うんぬんはよくわからない。230年には75歳だった董昭が、「もう私は80歳近くになったから」というニュアンスで発言したのかもしれない。

同年夏、呉質は死去して醜侯と諡され、息子の呉応が跡を継いだ。

呉応が働きかけた結果、曹髦(そうぼう)の正元(せいげん)年間(254~256年)になり、改めて呉質に威侯の諡号(しごう)が贈られた。

管理人「かぶらがわ」より

登場箇所が少ないためコメントしにくいです。

上で挙げた記事は、ほぼ本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』によるもの。

このほか郭頒(かくはん)の『世語(せいご。魏晋世語〈ぎしんせいご〉)』には、次のような話がありました。

「あるとき魏王(曹操)が出征し、継嗣(曹丕)と臨菑侯(りんしこう。214~221年)の曹植(そうしょく)が道路のそばで見送った」

曹操が魏王の位にあったのは216~220年。

「曹植は(魏王の)功徳を称揚したが、その言葉の美しさに近侍は目を見張る。魏王も上機嫌で、継嗣はがっくりと見ているばかりだった」

「そこへ呉質が耳打ちする。『王がご出発の時、涙を流されますように――』」

「別れに臨むと継嗣は泣いて拝伏したので、王や近侍も涙にむせぶ。その結果、みな曹植は言辞こそ華やかだが、誠実さでは継嗣に及ばないと考えるようになった」

また、『呉質別伝』には次のような話もありました。

あるとき曹丕が呉質と曹休を召し寄せた席に、皇后(222~226年)の郭氏(かくし)を呼んで挨拶させます。

その際、曹丕は呉質に「卿(きみ)はジッと仰ぎ見てもよい」と言ったのだそう。これほどまで呉質は親愛を受けていたのだと(本来は夫人を見つめると不敬にあたる)。

同じく『呉質別伝』にはこういう話もありました。

224年に呉質が都に参内した折、曹丕は上将軍(じょうしょうぐん)と特進(とくしん。三公に次ぐ待遇)以下の者に詔(みことのり)を下し、皆を呉質の宿舎に集めて宴会を催します。

当時、上将軍の曹真は太っていて、中領軍(ちゅうりょうぐん)の朱鑠(しゅしゃく)は痩せていました。

そこで呉質は役者を呼び、太っちょと痩せっぽちをネタに話をさせます。

曹真が恥辱を感じて罵倒すると、呉質は剣の柄に手を掛けて言い返し、仲裁に入った朱鑠をどなりつけ、座を壊してしまったのだとか。

曹丕が昔を懐かしむ手紙には泣かせるものがあり、呉質にもいいところはあったのでしょうけど――。「虎の威を借る狐(キツネ)」のような印象が強いですね。

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