毛氏(もうし) ※曹叡(そうえい)の妻、明悼毛皇后(めいとうもうこうごう)

【姓名】 毛氏(もうし) ※名とあざなは不詳

【原籍】 河内郡(かだいぐん)

【生没】 ?~237年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第105回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・明悼毛皇后伝(めいとうもうこうごうでん)』あり。

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魏(ぎ)の曹叡(そうえい)のもと正室、明悼毛皇后

父の毛嘉(もうか)はもともと車作りの職人、母は夏氏(かし)。毛曾(もうそう)は弟。

黄初(こうしょ)年間(220~226年)、毛氏は平原王(へいげんおう。222~226年)だった曹叡に仕えて寵愛を受けた。

(226年の)曹叡の即位後に貴嬪(きひん。皇妃の位のひとつ)となり、227年に皇后に立てられた。その後、曹叡が郭氏(かくし)を寵愛するようになったため、毛氏への寵愛は薄れる。

そして237年、曹叡が毛氏を招かずに後宮の庭園で宴を催すと、このことを聞き知った毛氏が曹叡に嫌味を言った。

曹叡は秘密を漏らしたということで、そば仕えの者たち10人以上を処刑。毛氏も死を賜ったが、それでも諡(おくりな)を与えられて愍陵(びんりょう)に埋葬された。

管理人「かぶらがわ」より

本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引かれた孫盛(そんせい)の指摘には、「魏王朝では武帝(ぶてい。曹操〈そうそう〉)から明帝(めいてい。曹叡)に至るまで、3人の皇后が卑賤(ひせん)の身分から引き上げられている」とあり、「出自が卑しいわけだから、どうしてこの世に長らえることができようか?」と言っています。

現代では出自をどうこう言うと、ちょっと残念な感じがしますし、差別的な要素も出てくると思います。ただ、当時は誰でも教養を身に付けられたわけではなく、名家出身の女性に皇后としてふさわしい人物が多かったのは想像できます。

それが、君主の寵愛の度合いによって位階が決まるようになり、後宮の風紀も乱れてくるとなると、国の興亡に后妃の果たす役割が大きかったのは当然だと思います。

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