曹操(そうそう) ※あざなは孟徳(もうとく)、魏(ぎ)の太祖(たいそ)武皇帝(ぶこうてい)

【姓名】 曹操(そうそう) 【あざな】 孟徳(もうとく)

【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん)

【生没】 155~220年(66歳)

【吉川】 第010話で初登場。
【演義】 第001回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・武帝紀(ぶていぎ)』あり。

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魏(ぎ)の礎を一代で築き上げた超世の英雄、太祖(たいそ)武皇帝(ぶこうてい)

曹操は一名を吉利(きつり)、幼時のあざなを阿瞞(あまん)と言った。

祖父は大宦官(だいかんがん)の曹騰(そうとう)、父は夏侯氏(かこうし)から養子に入ったという曹嵩(そうすう)で、こちらも曹騰の勢力を背景に高官を歴任した。

戦死した曹昂(そうこう)をはじめ、曹丕(そうひ)・曹彰(そうしょう)・曹植(そうしょく)・曹熊(そうゆう)・曹沖(そうちゅう)など、25人の息子を儲けた。

黄巾(こうきん)討伐や反董卓(とうたく)連合軍への参加で名を上げた後、196年に漢(かん)の献帝(けんてい)を許(きょ)へ迎える。

200年の官渡(かんと)の戦いで袁紹(えんしょう)に大勝を収め、207年に烏丸(うがん。烏桓)へ遠征。

翌208年に丞相(じょうしょう)に就任すると、この年に死去した劉表(りゅうひょう)の跡を継いだ劉琮(りゅうそう)を降す。

しかし年末にかけ、烏林(うりん)・赤壁(せきへき)で孫権(そんけん)配下の周瑜(しゅうゆ)の火攻めを受けて大敗。

それでも赤壁の敗戦後も影響力は衰えず、213年に魏公(ぎこう)、216年には魏王(ぎおう)へ爵位が進む。だが、自身は帝位に即くことなく、220年1月に病死した。

同年10月、献帝の禅譲を受ける形で帝位に即いた曹丕から、武皇帝と諡(おくりな)された。廟号(びょうごう)は太祖。

主な経歴

-155年(1歳)-
この年、誕生。

-174年(20歳)-
?月、孝廉(こうれん)に推挙されて郎(ろう)となる。その後、洛陽北部尉(らくようほくぶい)として高官や関係者も厳格に取り締まって名を上げる。

頓丘県令(とんきゅうけんれい)として地方に転出した後、洛陽(らくよう)に戻って議郎(ぎろう)を務める。

-184年(30歳)-
3月(2月とも)、黄巾の乱が勃発すると、騎都尉(きとい)として戦場に派遣され、潁川(えいせん)で功を上げる。

済南国相(せいなんこくしょう)に昇進して赴任すると、国内の諸県にはびこる汚職官吏を排除すべく、上奏して官吏の8割を罷免。民を惑わせる祭祀(さいし)も禁じて厳しく取り締まる。

東郡太守(とうぐんたいしゅ)に任ぜられたものの、病気を理由に帰郷。187年には息子の曹丕が生まれる。

-188年(34歳)-
8月、西園八校尉(せいえんはちこうい)が新設され、そのひとつである典軍校尉(てんぐんこうい)に就任。

-189年(35歳)-
?月、董卓が献帝を擁立し、政権を壟断(ろうだん)すると洛陽を脱出。12月には陳留(ちんりゅう)で挙兵した。

-190年(36歳)-
1月、反董卓連合軍に参加し、奮武将軍(ふんぶしょうぐん)を兼務。

-191年(37歳)-
?月、黒山(こくざん)の賊である于毒(うどく)・白繞(はくじょう)・眭固(すいこ)らが10余万の軍勢で魏郡(ぎぐん)を攻略。東郡太守の王肱(おうこう)は防ぐことができなかった。

そこで曹操自ら軍勢をひきいて東郡へ入り、濮陽(ぼくよう)で白繞を攻め破った。

?月、袁紹の推薦によって東郡太守に就任し、東武陽(とうぶよう)に政庁を置く。

-192年(38歳)-
春、頓丘に軍営を置いていたところ、隙を突いた于毒らが東武陽へ攻め寄せる。自ら軍勢をひきいて西方の黒山へ入り、敵の本拠地を攻めると于毒は引き返してきた。

さらに眭固を待ち伏せ、匈奴(きょうど)の於夫羅(おふら)を内黄(ないこう)で攻め、いずれも大勝する。

?月、黄巾賊との戦いで戦死した劉岱(りゅうたい)に代わり、兗州牧(えんしゅうぼく)に就任(ただし、正式に献帝から任命されたのは195年のこと)。

兗州に侵攻した青州(せいしゅう)黄巾賊の大軍を、東平国(とうへいこく)寿張県(じゅちょうけん)の東で大破。

この戦いの後、30万人とも言われる降兵と、彼らに付き従う男女100余万人を受け入れる。このとき編制された青州兵が、以後の曹操快進撃の原動力になった。

この年、袁紹と袁術(えんじゅつ)が仲たがいし、袁術は公孫瓚(こうそんさん)に救援を求める。

これを受けて公孫瓚は、劉備(りゅうび)を高唐(こうとう)に、単経(ぜんけい)を平原(へいげん)に、陶謙(とうけん)を発干(はっかん)に、それぞれ駐屯させて袁紹を圧迫した。一方で曹操は袁紹に協力し、彼らをすべて討ち破った。

この年、息子の曹植が生まれた。

-193年(39歳)-
春、鄄城(けんじょう)に軍営を置く。

荊州牧の劉表が袁術の糧道を断つと、袁術は軍勢をひきいて陳留郡へ入り、封丘(ほうきゅう)に駐屯。黒山の残賊と於夫羅が彼を助けた。

そこで袁術配下の劉詳(りゅうしょう)を匡亭(きょうてい)で攻め、救援に駆けつけた袁術ともども大破する。

袁術が封丘へ退却したため、これを包囲。しかし包囲網が完成する前に、袁術は襄邑(じょうゆう)へ逃走してしまう。

その後、襄邑、太寿(たいじゅ)、寧陵(ねいりょう)と追撃を続けたが、さらに袁術は九江(きゅうこう)へ逃走した。

夏、引き返して定陶(ていとう)に軍営を置く。

下邳(かひ)の闕宣(けつせん)が数千人を集め、天子(てんし)を自称する。徐州牧(じょしゅうぼく)の陶謙が闕宣と結んで挙兵し、泰山郡(たいざんぐん)の華県(かけん)と費県(ひけん)を奪い、任城国(じんじょうこく)も攻略した。

秋、陶謙討伐に向かい、10余城を陥す。陶謙自身は城を固守し、出撃してこなかった。

この年、父の曹嵩が、徐州牧の陶謙配下の部将に殺害された。

-194年(40歳)-
春、徐州から帰還。

夏、荀彧(じゅんいく)と程昱(ていいく)に鄄城の守備を命じ、再び陶謙討伐に向かう。

まず5城を陥し、攻略を進めて東海(とうかい)まで到達。帰路で郯(たん)を通った際、陶謙配下の曹豹(そうほう)と劉備が迎え撃ってきたものの、これらも郯の東で撃破する。さらに襄賁(じょうほん)も攻略した。

このときの一連の陶謙討伐では各地で虐殺を行い、後に識者から激しい非難を浴びることになる。

?月、張邈(ちょうばく)が陳宮(ちんきゅう)とともに背き、呂布(りょふ)を兗州へ迎え入れ、郡県もみな呼応した。

ただ、荀彧と程昱は鄄城を守り抜き、范県(はんけん)と東阿県(とうあけん)も城を固守した。そのため曹操は軍勢をひきいて帰還することができた。

濮陽の呂布を攻め、100余日も対峙(たいじ)したものの、蝗(イナゴ)の発生によって両軍とも撤退する。

9月、鄄城に帰還。乗氏(じょうし)へ向かった呂布は李進(りしん)に撃破され、東の山陽(さんよう)に駐屯した。

10月、東阿へ赴く。

この年、穀物が1斛(こく)50余万銭に高騰し、人間同士が食い合うほどの惨状を呈する。そこで軍吏や兵士の新たな募集を取りやめた。

-195年(41歳)-
春、定陶を攻撃。済陰太守(せいいんたいしゅ)の呉資(ごし)が守る、定陶の南城を陥せないうちに呂布が到着したため、呂布の軍勢を撃破した。

夏、呂布配下の薛蘭(せつらん)と李封(りほう)が駐屯していた鉅野(きょや)を攻めると、呂布が救援に駆けつける。薛蘭を斬り、呂布は逃走した。

呂布は再び1万余の軍勢をひきい、陳宮とともに東緡(とうびん)から来て戦いを仕掛けた。このとき曹操軍は数が少なかったが、伏兵を置き、奇襲部隊を用いて攻撃することで大勝利を得た。

呂布は夜に紛れて逃走。こうして曹操は定陶を陥し、軍勢を分けて諸県を平定できた。

呂布は東の劉備のもとへ向かい、張邈がこれに付き従ったが、張邈は弟の張超(ちょうちょう)に命じて、家族とともに雍丘(ようきゅう)を守らせた。

8月、雍丘の張超を包囲。

10月、献帝から兗州牧に任ぜられる。

12月、雍丘を陥す。張超は自殺し、城に残っていた張邈の三族(父母・妻子・兄弟姉妹、異説もある)を処刑。

さらに張邈が、袁術へ救援要請に行く途中で部下に殺害されたので、曹操は兗州を平定することができた。

12月、東へ向かい、陳国(ちんこく)を攻略。

この年、長安(ちょうあん)で動乱が起こり、献帝が東へ向かう。しかし曹陽(そうよう)で追っ手に敗れ、黄河(こうが)を渡って安邑(あんゆう)へ行幸した。

この年、息子の曹彪(そうひゅう)が生まれた。

-196年(42歳)-
1月、武平(ぶへい)を攻め、袁術が任命した陳国相(ちんこくしょう)の袁嗣(えんし)を降す。

1月、献帝を迎え入れようと考えたものの、諸将の中には疑念を抱く者もいた。

荀彧と程昱が勧めたため、曹洪(そうこう)に兵を与えて西方へ迎えに行かせたが、衛将軍(えいしょうぐん)の董承(とうしょう)が袁術配下の萇奴(ちょうど)とともに要害を盾に抵抗し、曹洪は進めなくなった。

2月、汝南(じょなん)と潁川の両郡の黄巾賊を討伐。劉辟(りゅうへき)や黄邵(こうしょう)らを斬り、何儀(かぎ)と配下の賊兵を降す。この功により建徳将軍(けんとくしょうぐん)に任ぜられる。

6月、鎮東将軍(ちんとうしょうぐん)に昇進したうえ、費亭侯(ひていこう)に封ぜられる。

7月、楊奉(ようほう)と韓暹(かんせん)が献帝を擁して洛陽へ入る。楊奉は韓暹と別れて梁(りょう)に駐屯した。

8月、洛陽へ赴くと韓暹が逃走。領司隷校尉(りょうしれいこうい)に就任し、仮節鉞(かせつえつ)・録尚書事(ろくしょうしょじ)となる。

8月、董昭(とうしょう)らの進言を容れ、献帝に許への遷都を勧めて承諾を得る。

9月、大将軍(だいしょうぐん)に任ぜられ、武平侯(ぶへいこう)に爵位が進む。

10月、楊奉を討伐し、梁の軍営を攻め落とす。楊奉は南方の袁術のもとへ逃走した。

11月、袁紹が太尉(たいい)への任命に不満を示したため、袁紹に大将軍を譲り、新たに司空(しくう)・行車騎将軍事(こうしゃきしょうぐんじ)に就任する。

『後漢書(ごかんじょ)』(献帝紀〈けんていぎ〉)では、袁紹の大将軍就任は翌197年3月とある。

この年、棗祗(そうし)や韓浩(かんこう)らの意見を容れ、初めて「屯田制(民屯)」を実施した。

この年、呂布に敗れた劉備を受け入れた。

この年、息子の曹沖が生まれた。

-197年(43歳)-
1月、宛(えん)に赴き、張済(ちょうせい)の軍勢を引き継いだ張繡(ちょうしゅう)を降す。

?月、いったん降伏していた張繡が背く。この戦いでは曹操が流れ矢を受けて負傷し、長男の曹昂や甥の曹安民(そうあんみん)を失う。

?月、軍勢をひきいて舞陰(ぶいん)に戻る。張繡が騎兵をひきいて追撃してきたものの撃破。許への帰還を決める。張繡は穣(じょう)へ向かい、劉表と連合した。

9月、袁術が陳に侵入したため、これを討伐するため東方へ赴く。袁術は軍勢を捨てて逃走し、橋蕤(きょうずい)・李豊(りほう)・梁綱(りょうこう)・楽就(がくしゅう)を残した。

到着後に橋蕤らを撃破し、みな斬り殺す。袁術は淮水(わいすい)を渡って逃げたので、許へ帰還することにした。

?月、南陽(なんよう)や章陵(しょうりょう)の諸県が再び背き、張繡に味方する。

曹洪を遣って攻めさせたが勝てず、曹洪は引き返して葉(しょう)に駐屯。だが、しばしば張繡や劉表の攻撃を受けた。

11月、自ら南征して宛まで行く。劉表配下の鄧済(とうせい)を生け捕って湖陽(こよう)を降すと、続いて舞陰も攻め落とした。

-198年(44歳)-
1月、許に帰還し、初めて軍師祭酒(ぐんしさいしゅ)の官を設置する。

3月、自ら軍勢をひきい、張繡を穣で包囲する。

5月、劉表が軍勢を出して張繡を救援し、曹操軍の退路を断つ。

?月、安衆(あんしゅう)で張繡と劉表の軍勢に前後を挟まれる。このとき夜中に要害の地に穴を掘らせて地下道を作り、輜重(しちょう)をすべて通したうえで奇襲部隊を伏せた。

夜が明けると、張繡と劉表は曹操軍が逃走したと思い込み、全軍で追撃を開始する。そこで曹操は奇襲部隊を出撃させ、歩騎で挟撃して散々に討ち破った。

7月、許に帰還。

?月、呂布が再び袁術に味方し、配下の高順(こうじゅん)を遣って劉備を攻めさせた。夏侯惇(かこうとん)に救援を命じたが勝利は得られず、劉備は高順に討ち破られた。

9月、自ら呂布討伐に向かう。

10月、彭城(ほうじょう)を陥し、彭城国相の侯諧(こうかい)を捕らえる。

?月、さらに下邳まで進撃。呂布ひきいる騎兵部隊を大破し、部将の成廉(せいれん)を捕らえる。

?月、呂布が固守する下邳城を攻めたものの陥せず。そこで荀攸(じゅんゆう)と郭嘉(かくか)の献策を容れ、泗水(しすい)と沂水(ぎすい)を決壊させて水攻めにした。

12月、呂布配下の宋憲(そうけん)と魏続(ぎしょく)らが陳宮を捕らえ、城を挙げて降伏してくる。生け捕りにした呂布ともども処刑した。

その後、呂布に従っていた泰山の臧霸(そうは)・孫観(そんかん)・呉敦(ごとん)・尹礼(いんれい)・昌豨(しょうき)らを捕虜にする。彼らを厚遇し、青州と徐州の両州に海岸地帯を付けて割き、その統治を委ねた。

また、このとき琅邪(ろうや)・東海・北海(ほっかい)を分割し、城陽(じょうよう)・利城(りじょう)・昌慮(しょうりょ)の3郡を設置した。

-199年(45歳)-
2月、昌邑(しょうゆう)まで帰る。

このころ張楊(ちょうよう)が配下の楊醜(ようしゅう)に殺害され、楊醜もまた眭固に殺害された。眭固は軍勢をひきいて袁紹の配下となり、射犬(しゃけん)に駐屯した。

4月、自ら軍勢を進めて黄河に臨み、曹仁(そうじん)と史渙(しかん)に黄河を渡らせ、眭固を攻めるよう命ずる。

眭固は、張楊配下でもと長史(ちょうし)の薛洪(せつこう)と河内太守(かだいたいしゅ)の繆尚(びゅうしょう)を留めて守らせる。

一方で眭固は軍勢をひきいて北方へ行き、袁紹を迎えて救援を要請しようとした。しかし、犬城(けんじょう)で曹仁と史渙が眭固に遭遇し、散々に討ち破って眭固を斬った。

こうして曹操自身も黄河を渡り、射犬を包囲する。

薛洪と繆尚が軍勢をひきいて降伏したため、ふたりを列侯(れっこう)に封じ、引き揚げて敖倉(ごうそう)に駐留した。また、魏种(ぎちゅう)を河内太守に取り立てて河北の軍政を委ねた。

6月、袁術が死去。

8月、自ら黎陽(れいよう)に軍勢を進め、臧霸らを青州へ進攻させて斉(せい)・北海・東安(とうあん)を討ち破り、于禁(うきん)を黄河の河岸に駐屯させる。

9月、許に帰還したが、このとき軍勢を分けて官渡を守らせる。

11月、張繡が軍勢をひきいて降伏してきたため、列侯に封ずる。

12月、自ら官渡へ赴く。

この年、劉備が下邳で徐州刺史(じょしゅうしし)の車冑(しゃちゅう)を殺害。その地で旗揚げして沛に駐屯した。

これを受けて、劉岱と王忠(おうちゅう)を遣わし劉備を攻めさせたものの、勝つことができなかった。

この年、廬江太守(ろこうたいしゅ)の劉勲(りゅうくん)が軍勢をひきいて降伏してきたため、列侯に封じた。

-200年(46歳)-
1月、車騎将軍の董承らが献帝の密詔を受け、曹操殺害を謀っていたことが露見。この件の関係者とその三族を皆殺しにする。この中には、董承の娘で懐妊中だった董貴人(とうきじん)も含まれていた。献帝から助命を乞われるも許さず。

?月、自ら劉備討伐に乗り出す。劉備を討ち破り、劉備配下の夏侯博(かこうはく)を生け捕りにした。劉備は袁紹のもとへ逃げたが、残された劉備の妻子を捕らえる。

?月、さらに下邳へ軍勢を進め、劉備配下の関羽(かんう)を降す。

?月、昌豨が背いて劉備に味方したものの、これを攻め破る。この後で官渡へ戻ったが、袁紹は留守にしていた間に出撃しなかった。

2月、袁紹配下の郭図(かくと)・淳于瓊(じゅんうけい)・顔良(がんりょう)が、白馬(はくば)にいた東郡太守の劉延(りゅうえん)を攻める。袁紹自身も兵をひきいて黎陽へ赴き、黄河を渡ろうとした。

4月、自ら劉延の救援に赴く。この際に荀攸の進言を容れ、延津(えんしん)から兵を渡河させて袁紹軍の背後を突く姿勢を見せる。袁紹が軍勢を分けて対応すると、自ら軽鋭の兵をひきい、通常の倍の速度で白馬へ向かった。

白馬から迎撃に出てきた顔良に対し、張遼(ちょうりょう)と関羽に先陣を命じて撃破する。この戦いで顔良を討ち取った。

こうして白馬の包囲を解くと、その地の住民たちを移し、黄河に沿って西へ向かった。

?月、袁紹が黄河を渡って追撃に動き、延津の南まで進んでくる。そのため軍勢を留め、南阪(なんはん)に陣営を築いた。

?月、白馬から動かした自軍の輜重部隊を餌にして、袁紹配下の文醜と、劉備ひきいる5、6千の騎兵部隊を散々に討ち破る。この際、文醜を斬った。

?月、自ら軍勢をひきいて官渡へ戻る。一方で袁紹は陽武(ようぶ)へ軍勢を進めた。なお、このころ関羽が劉備のもとへ帰っていった。

8月、袁紹が陣営を連ね、少しずつ前進してくる。袁紹は砂山に沿って陣を布(し)いていたが、これは東西数十里にわたるものだった。

これに陣営を分けて対応したものの、負け戦となる。このとき曹操軍は1万に満たなかったが、その10分の2、3が負傷した。

?月、袁紹が再び軍勢を進めて官渡に臨み、土山と地下道を築く。これに対して曹操も同じものを造る。

そのころ兵糧が少なくなってきたため、許に残った荀彧に手紙を送り、帰還のことを相談する。

しかし荀彧から、「今こそ天下分け目のとき」との返書が届き、この意見に従って帰還を思いとどまった。

?月、汝南の賊将の劉辟らが背き、袁紹に味方して許の近郷を荒らす。袁紹は劉備に劉辟を援護するよう命じたが、曹操は曹仁を遣わして劉備を撃破させる。敗れた劉備は逃走し、劉辟の屯営も討ち破ることができた。

?月、荀攸の献策を容れ、徐晃(じょこう)と史渙に命じて袁紹軍の兵糧輸送車を襲わせる。ふたりはこれを散々に討ち破り、兵糧輸送車をことごとく焼き払った。

10月、袁紹が、さらに輸送車を投入して兵糧を運搬させることを決め、淳于瓊ら5人に1万余の兵を与えて護送を命ずる。淳于瓊らは袁紹の陣営の北40里に宿営した。

?月、袁紹配下の許攸(きょゆう)が降り、淳于瓊らを急襲するよう進言した。曹操の側近たちは許攸の言葉に疑いを抱いたが、荀攸と賈詡(かく)から容れるよう勧められた。

そこで許攸の進言を容れることにし、曹洪に留守を預けると、自ら5千の歩騎をひきいて夜中に出発し、夜明けごろに淳于瓊の陣を攻めた。

袁紹は騎兵を遣わして淳于瓊を救援させたが、すでに曹操は淳于瓊らを散々に討ち破り、部将らをみな斬っていた。

このとき袁紹は、張郃(ちょうこう)と高覧(こうらん)に曹洪を攻めさせていたが、淳于瓊が敗れた後、このふたりは降伏してきた。

袁紹軍は総崩れとなり、袁紹は長子の袁譚(えんたん)とともに軍勢を捨てて逃げ、黄河を渡る。袁紹らを追わせたが、ついに追いつけなかった。

それでも、袁紹が捨てていった輜重・図書・珍宝類をすべて回収し、残っていた部下も捕虜にできた。回収した袁紹あての書簡の中には、自分の配下である許の城下や、軍中の者からの書簡も交じっていたが、それらを含めてすべて焼くよう命じた。

冀州(きしゅう)の諸郡では、城邑(じょうゆう)を挙げて降伏する者が多数出た。

-201年(47歳)-
4月、黄河のほとりに兵を上陸させ、倉亭(そうてい)にいた袁紹の駐屯軍を攻め破る。

袁紹は鄴(ぎょう)へ帰還すると離散した兵を収容し、自分に背いた冀州の郡県の平定にあたった。

9月、許に帰還。袁紹は曹操に敗れる前、劉備に汝南の攻略を命じており、汝南の賊の共都(きょうと。龔都)らが呼応していた。

そこで曹操は、蔡揚(さいよう。蔡陽)を遣わして共都を攻めるよう命じたが、逆に討ち破られた。

9月、自ら劉備討伐のため南方へ向かう。劉備は曹操自身が出馬したと聞き、劉表のもとへ逃走。共都(龔都)らも散りぢりになった。

-202年(48歳)-
1月、譙で布告を出す。「義兵を挙げて以来、戦死して跡継ぎのない将兵は、その親戚を探し出して跡継ぎとせよ。また、田地を授けて耕牛を給付し、教師を置いて教育を受ける機会を与えよ。跡継ぎのいる者には廟を建ててやり、その先人を祭らせよ」というもの。

?月、自ら浚儀(しゅんぎ)へ赴き、睢陽渠(すいようきょ。運河)の改修を命ずる。さらに使者を遣わし、太牢(たいろう。牛・羊・豕〈し。ブタ〉)を捧げて橋玄(きょうげん)を祭り、軍勢を官渡へ進めた。

5月、袁紹が病死。末子の袁尚(えんしょう)が代わり、その兄の袁譚が車騎将軍を自称して黎陽に駐屯した。

9月、袁譚と袁尚を討伐するため連戦。たびたび討ち破ると、敗れたふたりは退却して守りを固めた。

-203年(49歳)-
3月、袁譚と袁尚の城(黎陽城か?)を攻める。城から出てきた軍勢を討ち破ると、ふたりとも夜に紛れて逃走した。

4月、鄴へ軍勢を進める。

5月、許に帰還したが、このとき賈信(かしん)を黎陽に留めた。

5月、布令を出す。「諸将に出征を命じた際、戦いに敗れた者の罪を問い、利を失った者は官位や爵位を取り上げる」というもの。

6月、布令を出す。管仲(かんちゅう)の言葉を引いて、「無能の者や不闘の士が俸禄や恩賞を受けながら、功績が打ち立てられて国家が興隆したという話は聞いたことがない」と述べ、功績に見合わない任官や恩賞を否定するもの。

7月、布令を出す。「500戸以上の県には校官(こうかん)を置き、その郷(きょう)の俊才を選抜して教育を施せ」というもの。

8月、劉表討伐に向かい、西平(せいへい)に駐留。

?月、先に曹操が鄴を去って南(許)に帰った後、袁譚と袁尚が冀州の支配権を巡って争うようになった。そして、この争いに敗れた袁譚は平原へ逃走した。

袁尚が袁譚を激しく攻め立てると、袁譚は辛毗(しんぴ)を遣わして曹操に降伏を申し入れたうえ、救援を要請する。

曹操配下の諸将はみなためらったが、荀攸に袁譚の降伏を容れるよう勧められたため、西平から軍勢を引き揚げて戻ることにした。

10月、黎陽に到着。息子の曹子整(そうしせい)のために袁譚の家と縁組みをする。袁尚は曹操が北に向かったと聞くと、平原の包囲を解いて鄴へ帰った。

?月、袁尚に背き、陽平(ようへい)に駐屯していた呂曠(りょこう)と呂翔(りょしょう)が軍勢を挙げて降伏してきたため、列侯に封ずる。

-204年(50歳)-
1月、自ら黄河を渡り、淇水(きすい)の流れをせき止めて白溝(はくこう。運河)に水を入れ、糧道を通ずる。

2月、袁尚が再び袁譚を攻める。この際、袁尚は蘇由(そゆう)と審配(しんぱい)を鄴の守備に残した。

?月、自ら洹水(かんすい)まで軍勢を進めたところ、袁尚配下の蘇由が降伏する。続いて鄴の攻撃に移り、土山と地下道を築く。

このとき袁尚配下で武安県長(ぶあんけんちょう)の尹楷(いんかい)が毛城(もうじょう)に駐屯しており、上党(じょうとう)からの糧道を確保していた。

4月、鄴攻めに曹洪を残すと自ら尹楷を攻め、これを討ち破って戻る。また、邯鄲(かんたん)を守っていた袁尚配下の沮鵠(しょこく)も攻め破った。

4月、易陽県令(えきようけんれい)の韓範(かんはん)と渉県長(しょうけんちょう)の梁岐(りょうき)が県を挙げて降伏してきたため、関内侯(かんだいこう)に封ずる。

5月、土山と地下道を壊して鄴城の周囲に濠を掘り、漳水(しょうすい)を決壊させて城に注ぎ込む。このため鄴の城内では半数以上の者が餓死した。

7月、袁尚が鄴を救援するために引き返してくる。袁尚は西山(せいざん)を通り、滏水(ふすい)を前にして陣を布いた。

袁尚は夜中に兵を出し、鄴城を包囲していた曹操軍に夜襲を仕掛けたものの、敗れて逃げ帰った。

そのまま曹操は袁尚の陣を包囲する。この包囲網が完成する前、袁尚はもとの豫州刺史(よしゅうしし)の陰夔(いんき)と陳琳(ちんりん)を遣わして降伏を乞うたが、曹操は許さず、包囲をますます厳しくした。

袁尚は夜に紛れて逃走し、祁山(きざん)に入ったため、これを追撃する。袁尚配下の馬延(ばえん)と張顗(ちょうぎ)らは戦闘を前に降伏し、敵の軍勢は総崩れになった。

袁尚は中山(ちゅうざん)へ逃走。その輜重をことごとく鹵獲(ろかく)し、袁尚の印綬(いんじゅ。官印と組み紐〈ひも〉)と節鉞も手に入れた。袁尚の降兵を家族に見せると、鄴の城内では戦意を喪失した。

?月、曹操が鄴を包囲していた間に、袁譚は甘陵(かんりょう)・安平(あんぺい)・勃海(ぼっかい)・河間(かかん)を攻略していた。

袁尚が曹操に敗れて中山へ逃げ帰ったところ、袁譚はこれを攻め、袁尚は故安(こあん)へ逃げた。その結果、袁譚は袁尚の軍勢を併せることができた。

?月、袁譚に書簡を送り、約束に背いたことを責めたうえで縁戚関係を絶つ。そして袁譚の娘を帰途に就かせた後、軍勢を進める。袁譚は平原から逃げ出して南皮(なんぴ)に入った。

8月、審配の甥で鄴城の東門を守っていた審栄(しんえい)が、夜中に城門を開けて曹操軍を迎え入れる。審配は最後まで抵抗したが、ついに生け捕りにして処刑。ようやく鄴城を攻略することができた。

9月、布告を出す。「河北は袁氏の難により被害を受けたため、今年の租税を供出しなくてもよい」というもの。また、権勢のある者が土地や貨財を兼併することに対する法を厳しくしたため、民は大喜びだった。

9月、献帝から冀州牧(きしゅうぼく)に任ぜられる。これを受け、これまで務めていた兗州牧を辞退し、新たに冀州牧に就任した。

12月、平原に入城して諸県を攻略する。

-205年(51歳)-
1月、袁譚を攻め破り、袁譚と妻子を処刑する。これにより冀州の平定が成った。

1月、布告を出す。「個人的な復讐を許さず、贅沢な葬儀を禁止し、すべて法によって統一する」というもの。

1月、袁熙(えんき)配下の焦触(しょうしょく)と張南(ちょうなん)らが背き、袁熙と袁尚らを攻める。

袁氏のふたりは、3郡の烏丸族(うがんぞく。遼西〈りょうせい〉の蹋頓〈とうとつ〉、遼東〈りょうとう〉の蘇僕延〈そぼくえん〉、右北平〈ゆうほくへい〉の烏延〈うえん〉)のもとに逃げた。その後、焦触らは県を挙げて降伏してきたため、列侯に封じた。

4月、黒山の賊である張燕(ちょうえん)が、軍勢10余万をひきいて降伏してきたため、列侯に封ずる。

?月、故安(こあん)の趙犢(ちょうとく)と霍奴(かくど)らが、幽州刺史(ゆうしゅうしし)と涿郡太守(たくぐんたいしゅ)を殺害する。

?月、3郡の烏丸族が、獷平(こうへい)にいた鮮于輔(せんうほ)を攻める。

8月、自ら討伐に出て趙犢らを斬り、潞河(ろが)を渡って獷平の鮮于輔を助ける。烏丸族は国境を越えて逃走した。

?月、高幹(こうかん)が幷州(へいしゅう)を挙げて反乱を起こす。その昔、袁紹は甥にあたる高幹に幷州牧(へいしゅうぼく)を任せていた。曹操が鄴を陥したときに高幹は降伏し、そのまま幷州刺史(へいしゅうしし)に任ぜられていた。

高幹は、曹操が烏丸征討に赴いたと聞いて反乱を起こし、上党太守(じょうとうたいしゅ)を捕らえ、兵をこぞって壺関(こかん)の入り口を固めた。

?月、楽進(がくしん)と李典(りてん)に命じ、幷州で背いた高幹を攻めさせる。高幹は壺関へ引き返して城を守った。

9月、布令を出す。「阿諛迎合(あゆげいごう)して徒党を組むことは、過去の聖人が憎んだことである」として、「父と子が党派を異にし、互いに批判し合ったり称誉し合うという冀州の風俗を恥と考える」というもの。

10月、鄴に帰還。

-206年(52歳)-
1月、自ら高幹討伐に向かう。これを聞いた高幹は、配下の部将を壺関の守りに残して匈奴へ行き、単于(ぜんう。王)に救援を求めた。しかし単于は、この要請を断った。

?月、3か月の包囲を経て壺関を陥す。高幹は荊州へ逃げようとしたものの、道中で上洛都尉(じょうらくとい)の王琰(おうえん)に捕らえられて斬られた。

8月、自ら東へ向かい、海賊の管承(かんしょう)討伐に乗り出す。

淳于(じゅんう)まで行ったところで楽進と李典を遣わし、管承を攻め破った。管承は海中の島に逃げ込む。

?月、東海郡から襄賁・郯・戚(せき)の諸県を割いて琅邪郡に付けたうえ、昌慮郡を廃止する。

10月、布告を出す。「今後、もろもろの掾属(えんぞく。属官)である治中従事(ちちゅうじゅうじ)や別駕従事(べつがじゅうじ)は、毎月1日にそれぞれ政治の欠陥について進言するように」というもの。

?月、そのむかし3郡の烏丸は天下の動乱に付け込み、幽州(ゆうしゅう)を討ち破り、漢の民10余万戸を略取した。袁紹は酋長(しゅうちょう)らをみな単于に取り立て、従者の娘を自分の娘に仕立てて娶(めあわ)せた。

遼西の単于の蹋頓が最も強力で、袁紹に厚遇された。そのため曹操に敗れた袁尚兄弟は彼を頼った。しばしば蹋頓は国境を越えて侵入を繰り返し、被害を与えていた。

そこで曹操は蹋頓討伐のために運河を掘らせ、呼沲(こた)から泒水(こすい)に通じ、平虜渠(へいりょきょ)と名付ける。

また、泃河(きょが)の河口からも運河を掘らせ、潞河(ろが)に通じ、泉州渠(せんしゅうきょ)と名付けて海まで通じさせた。

-207年(53歳)-
2月、淳于から鄴に帰還。

2月、布告を出す。挙兵から19年が過ぎたことに触れ、「征伐した相手に必ず勝てたのは、賢明なる士大夫の力である」として、「急いで功績を評定して封爵を行うように」というもの。

これにより功臣20余人を列侯に取り立て、そのほかの者にも功績の大小に従って爵位を与えた。さらに戦死者の孤児にも、それぞれ軽重の差をつけて特別待遇を与えた。

?月、3郡の烏丸討伐のため自ら北方へ向かう。

このとき配下の諸将はみな、曹操が留守の間に劉備が劉表を説き伏せ、許を襲撃することを不安視した。ただ郭嘉だけは、劉表は劉備を任用できないと判断し、烏丸遠征を行うよう勧めていた。

5月、無終(ぶしゅう)に到着。

7月、大洪水のため、海沿いの道路が不通になる。ここで道案内を買って出た田疇(でんちゅう)に従って軍勢を進めた。

盧龍(ろりょう)の砦を出たところ、道路が断絶していて通れなかった。

そこで曹操は山を掘らせて谷を埋め、500余里にわたる道をつけ、白檀(はくたん)を通って平岡(へいこう)を過ぎ、鮮卑族(せんぴぞく)の領土を横切って東方の柳城(りゅうじょう)を目指した。

?月、袁熙と袁尚らが柳城まで200里に迫った曹操軍に気づき、蹋頓、遼西の単于の楼班(ろうはん)、右北平の単于の能臣抵之(のうしんていし)らとともに、数万の騎兵をひきいて迎撃に出る。

8月、白狼山(はくろうざん)で袁熙と袁尚らの軍勢に遭遇。敵陣に乱れがあるのを見ると、張遼に先鋒を命じて攻めさせる。

この戦いで曹操軍は、蹋頓および名王(めいおう。官名)以下の幹部を斬った。蛮族と漢族で降伏した者は20余万人に上った。

遼東の単于の速僕丸(そくぼくがん)および遼西や北平の酋長たちは同族の者を見捨て、袁熙や袁尚とともに遼東へ逃亡。しかし、彼らはなお数千騎の軍勢を擁していた。

9月、柳城から帰途に就く。

11月、易水(えきすい)に到着。代郡(だいぐん)の烏丸族で行単于(こうぜんう。単于代理)の普富盧(ふふろ)と、上郡(じょうぐん)の烏丸族で行単于の那楼(なろう)が、配下の名王を引き連れて祝賀に来る。

11月、遼東太守(りょうとうたいしゅ)の公孫康(こうそんこう)が、領内に逃げ込んだ袁熙・袁尚兄弟や速僕丸らを斬り、その首を届けてくる。これにより袁氏勢力は完全に壊滅した。

-208年(54歳)-
1月、鄴に帰還。玄武池(げんぶち)を造って水軍の訓練を行う。

6月、献帝が三公を廃止し、丞相と御史大夫(ぎょしたいふ)の官を設置する。この際、曹操が丞相に就任した。

7月、劉表討伐のため、自ら南方へ赴く。

8月、劉表が死去し、息子の劉琮が代わって襄陽(じょうよう)に駐屯する。このとき劉表のもとにいた劉備は樊(はん)にあった。

8月、太中大夫(たいちゅうたいふ)の孔融(こうゆう)を殺害し、一族も皆殺しにする。

9月、新野(しんや)に到着したところで劉琮が降伏してくる。このことを知った劉備は夏口(かこう)へ逃走した。

?月、当陽(とうよう)の長坂(ちょうはん)で劉備軍を討ち破る。しかし劉備を捕らえることはできなかった。

?月、江陵(こうりょう)へ軍勢を進め、荊州の官民に布告を出す。過去を洗い流し、新たに出発することを宣言したもの。

荊州の降伏に功績があった15人を列侯に封じ、劉表の配下だった文聘(ぶんぺい)を江夏太守(こうかたいしゅ)に取り立て、旧来の兵を指揮させる。また、荊州の名士である韓嵩(かんすう)や鄧義(とうぎ)らも取り立てた。

さらに、益州牧(えきしゅうぼく)の劉璋(りゅうしょう)が初めて役夫の徴集要請を受け入れ、兵を遣わしてきた。

10月、孫権討伐のため、水軍をひきいて南下する。しかし年末にかけ、烏林・赤壁で孫権配下の周瑜の火攻めを受けて敗れた。

12月、孫権が劉備に助力して合肥(ごうひ)に攻め寄せる。これに対し、曹操は江陵から劉備討伐のために出撃、巴丘(はきゅう)まで進む。一方、張憙(ちょうき)を遣わして合肥を救援させる。合肥を攻めていた孫権は、張憙が来ると聞くと逃走した。

この年、息子の曹沖が病死した。

-209年(55歳)-
3月、譙に到着。ここで脚の速い船を造らせて水軍を訓練した。

7月、渦水(かすい)から淮水に入り、肥水(ひすい)に出て自ら合肥に陣取る。

?月、布告を出す。「最近の征討によって官吏や士卒の戦死者を出した家で、生活の基礎となる財産を持たず、自活できない者に対し、県官(県の役人)は官倉から給付を絶つことのないように。長吏(ちょうり。県令や県長)は面倒を見ていたわってやるように」というもの。

?月、揚州(ようしゅう)の郡県に長吏を置き、芍陂(しゃくひ)に屯田を開設する。

12月、譙に帰還。

?月、曹仁と孫権配下の周瑜が南郡(なんぐん)で対峙して1年を越える。その間に多数の死傷者が出たが、ついに曹仁は敗れて城を捨てた。

-210年(56歳)-
春、布告を出す。「才能のある者がいるなら、地位や身分を問わずに推薦してほしい」というもの。

冬、鄴に造営していた銅雀台(どうじゃくだい)が完成する。

12月、布告を出す。自身のこれまでの行動を振り返り、「まだ江湖(こうこ)の地域(長江の流域)が鎮まらない以上、官位を譲るわけにはいかないが、領地については辞退することが可能だ」というもの。

そこで曹操は、陽夏(ようか)・柘(しゃ)・苦(こ)の3県2万戸を返上し、武平県の1万戸だけを食むことを申し出た。

-211年(57歳)-
1月、息子の曹丕が献帝から五官中郎将(ごかんちゅうろうしょう)に任ぜられ、丞相(曹操)の補佐を命ぜられる。

1月、献帝の意向により、先に領地の辞退を申し出た2万戸のうちの5千戸が削減されたうえ、残りの3県1万5千戸を分割して3人の息子に賜る。

この際、曹植が平原侯(へいげんこう)に、曹拠(そうきょ)が范陽侯(はんようこう)に、曹豹(そうほう。曹林〈そうりん〉)が饒陽侯(じょうようこう)に、それぞれ封ぜられた。その領邑(りょうゆう)は5千戸ずつとされた。

?月、商曜(しょうよう)らが大陵(たいりょう)で反乱を起こす。夏侯淵(かこうえん)と徐晃を遣わし、これらを包囲して撃破させた。

3月、鍾繇(しょうよう)に漢中(かんちゅう)の張魯(ちょうろ)討伐を命ずる。また夏侯淵らにも、河東(かとう)に出て鍾繇と合流するよう命じた。

?月、鍾繇の漢中遠征に対し、関中(かんちゅう)にいた馬超(ばちょう)が疑心を抱き、韓遂(かんすい)・楊秋(ようしゅう)・李堪(りかん)・成宜(せいぎ)らとともに反乱を起こす。

曹操は曹仁を遣わして討伐にあたらせ、馬超らは潼関(とうかん)に陣取った。

7月、自身も西方へ向かい、馬超らと潼関を挟んで陣を布く。対峙する一方で密かに徐晃と朱霊(しゅれい)らに命じ、夜中に蒲阪津(ほはんしん)を渡らせ、黄河の西を占めて陣営を築かせた。

?月、潼関から北へ渡河する。自軍が渡りきらないうちに馬超の攻撃を受けたものの、配下の校尉の丁斐(ていひ)が牛や馬を解き放ったため、馬超の兵は鹵獲(ろかく)しようとして混乱を起こした。

これにより曹操は無事に渡河を終え、黄河に沿って甬道(ようどう)を築きつつ南へ向かった。馬超は退却して渭口(いこう)を固めた。

?月、多数の疑兵を配置したうえ、密かに兵を舟に乗せて浮き橋を造らせ、夜中に兵を分けて渭水(いすい)の南に陣営を築かせる。

馬超らはこの陣営に夜襲を仕掛けてきたが、伏兵によって撃破した。

馬超らは渭水の南に陣取って書簡を送り、黄河以西を割くことを条件に講和を求めてきたが、曹操は承知しなかった。

9月、軍勢を進めて渭水を渡る。馬超らはあくまでも土地を分けるよう要求し、その代わりに人質を送ることを申し入れてきた。賈詡の献策を容れ、表向きは申し出を承知したように見せかけた。

韓遂の求めに応じて会見した際、あえて軍事には言及せず、ただ都(洛陽)での昔の思い出などを語り合うだけにした。

会見後、馬超は韓遂に話した内容を問うたが、韓遂は「特に何もなかった」と答えるだけだった。このことで馬超らに韓遂への疑心が生まれた。

別の日、曹操は韓遂に書簡を送ったが、わざと消したり書き改めたりした箇所を多く作り、韓遂がそうしたように見せかけた。この書簡を見た馬超らはいよいよ疑惑を抱いた。

9月、日を定めて馬超らと合戦し、散々に討ち破る。この戦いで李堪と成宜らを斬り、馬超と韓遂らは涼州(りょうしゅう)へ逃走、楊秋は安定(あんてい)へ奔った。こうして曹操は関中を平定することができた。

10月、長安から北へ向かい、安定の楊秋を包囲する。楊秋が降伏したためもとの爵位を与え、その地に留まって住民の鎮撫(ちんぶ)にあたるよう命じた。

12月、安定から帰途に就く。この際、夏侯淵を残して長安に駐留させた。

-212年(58歳)-
1月、鄴に帰還。

献帝から、蕭何(しょうか)の旧例に倣い、「拝謁の際に名前の称呼を取りやめる」「朝廷で小走りしなくてもよい」「剣を帯びたまま、履き物を履いて殿上に登ってもよい」という3つの特権を賜る。

?月、夏侯淵を遣わし、藍田(らんでん)に駐屯していた旧馬超勢力の梁興らを討伐させる。

?月、河内郡(かだいぐん)の蕩陰(とういん)・朝歌(ちょうか)・林慮(りんりょ)の3県、東郡の衛国(えいこく)と頓丘・東武陽・発干の3県、鉅鹿郡(きょろくぐん)の癭陶(えいとう)・曲周(きょくしゅう)・南和(なんか)の3県、広平郡(こうへいぐん)の任城県。趙国(ちょうこく)の襄国(じょうこく)と邯鄲・易陽の両県。以上が分割されて魏郡に付加される。

5月、衛尉(えいい)の馬騰(ばとう)を誅殺し、その一族も皆殺しとする。

10月、孫権討伐のため、自ら軍勢をひきいて濡須(じゅしゅ)へ向かう。従軍していた荀彧が寿春(じゅしゅん)で死去する。

-213年(59歳)-
1月、濡須口(じゅしゅこう)に到着。長江西岸の孫権の陣営を攻め破り、都督(ととく)の公孫陽(こうそんよう)を捕らえる。

?月、献帝の詔(みことのり)により、現在の14州が9州に併合される。

4月、鄴に帰還。

5月、献帝から魏公に封ぜられたうえ、九錫(きゅうせき)を加えられる。前後三度にわたって辞退しつつも、群臣の勧めに従い、最終的には詔を受け入れた。

7月、魏国の社稷(しゃしょく。土地神と穀物神の社〈やしろ〉)と宗廟(そうびょう)を建立する。

7月、3人の娘である曹憲(そうけん)・曹節(そうせつ)・曹華(そうか)を、献帝の夫人として勧める。このうち曹華については国元で成長を待つことになった。

9月、金虎台(きんこだい)を築く。また、運河を掘らせて漳水へ導き、白溝に入れて黄河に通じさせる。

?月、漢陽(かんよう)にいた馬超が、羌族(きょうぞく)を使って再び反抗する。氐族(ていぞく)の王の千万(せんばん)が呼応して興国(こうこく)に陣取った。これを受けて、夏侯淵に討伐を命じた。

10月、魏郡を東西の両部に分割し、それぞれに都尉(とい)の官を設置する。

11月、魏国に尚書・侍中(じちゅう)・六卿(りくけい)の官を設置する。

-214年(60歳)-
1月、初めて籍田(せきでん)を耕す。

?月、南安(なんあん)の趙衢(ちょうく)と漢陽の尹奉(いんほう)らが馬超を攻め、その妻子の首をさらす。馬超は漢中へ逃走した。

?月、韓遂が金城(きんじょう)へ移り、氐族の王の千万の部落に入る。

韓遂は羌族の1万余騎をひきいて夏侯淵と戦うも、散々に討ち破られて西平へ逃走した。夏侯淵は諸将とともに興国を攻め取る。

その後、安東(あんとう)と永陽(えいよう)の両郡を廃止した。

2月、娘の曹憲と曹節が、献帝の使者である王邑(おうゆう)と劉艾(りゅうがい)から貴人の印綬を授かる。

3月、献帝が、魏公の位を諸侯王の上に置くことを決め、曹操は改めて金璽(きんじ)・赤紱(せきふつ。璽に付ける赤色の紐)・遠遊冠(えんゆうかん)を賜る。

7月、自ら孫権討伐に向かう。

7月、魏の尚書令の荀攸が死去する。

?月、夏侯淵に命じ、隴西(ろうせい)で河首平漢王(かしゅへいかんおう)を自称していた宋建(そうけん)を討伐させる。

10月、夏侯淵が興国から出撃、枹罕を陥して宋建を斬る。これにより涼州を平定することができた。

10月、合肥から帰途に就く。

11月、伏皇后(ふくこうごう)が曹操殺害を謀ったことが発覚。曹操は伏氏を廃位のうえ暴室(ぼうしつ)に送る。伏氏は幽閉されたまま亡くなった。

また、伏氏が生んだふたりの皇子も酖毒(ちんどく)で殺害する。伏氏の兄弟ら宗族100余人も処刑、伏氏の母ら19人を涿郡への流刑とした。

12月、孟津(もうしん)に到着。

12月、献帝から、旄頭(ぼうとう。天子の旗に付ける旄牛〈から牛。牛の一種〉の飾り)を付け、宮殿に鍾虚(しょうきょ。鐘を吊り下げる台)を設けることを許される。

12月、布告を出す。「そもそも品行の正しい人物は、必ずしも行動力があるとは言えず、行動力のある人物は、必ずしも品行が正しいとは言えない」として、「士人に短所があるからといって、安易に無視することのないように」と、有司(担当官吏)に注意を促すもの。

また「刑罰は民の生命に関わる重要事だが、軍中の裁判に携わる者の中にはその役目にふさわしくない人物がいる」として、「法制に明らかな者を選んで刑罰を担当させるように」と命じて、理曹掾属(りそうえんぞく)の官を設置した。

-215年(61歳)-
1月、娘の曹節が献帝の皇后に立てられる。

1月、献帝が雲中(うんちゅう)・定襄(ていじょう)・五原(ごげん)・朔方(さくほう)の4郡を廃止。これらにひとつずつ県を設置して住民を管轄し、この4県を併せて新興郡(しんこうぐん)を設置する。

3月、張魯討伐のため西へ向かう。陳倉(ちんそう)まで進み、武都(ぶと)から氐へ入ろうとしたが、氐人が道をふさいだ。このため先に張郃と朱霊らを遣わし、攻撃させて討ち破った。

4月、陳倉から散関(さんかん)を経て河池(かち)に到着。しかし、氐王の竇茂(とうぼう)は1万余の軍勢を擁しており、険阻を頼んで服従しなかった。

5月、氐王の竇茂を攻め破る。

?月、西平や金城を占拠していた麴演(きくえん)と蔣石(しょうせき)らが協力し、韓遂の首を斬って送り届けてくる。

7月、陽平に到着。これに対し張魯は、弟の張衛(ちょうえい)と将軍の楊昂(ようこう)らを陽平関(ようへいかん)に立て籠もらせた。

曹操軍は、山を横切る形で10余里にわたって築かれた城を攻めたが陥せず、軍勢を引き揚げた。張衛らは曹操軍が退くのを見て守りを解いた。

?月、密かに解ヒョウ(かいひょう。忄+剽)と高祚(こうそ)らに険しい山を登らせ、夜襲をかけるよう命ずる。ふたりは張魯配下の楊任(ようじん)を斬り、さらに進撃して張衛を攻めた。

張衛は夜に紛れて逃走し、張魯は総崩れとなって巴中(はちゅう)へ逃げた。

曹操は軍勢をひきいて南鄭(なんてい)に入城し、張魯の庫に納められていた珍宝をことごとく奪い取る。巴(は)と漢はすべて降伏してきた。

漢寧郡(かんねいぐん)は再び漢中郡となり、漢中郡から安陽(あんよう)・西城(せいじょう)の両県を分割し、西城郡として太守を置いたうえ、錫(せき)・上庸(じょうよう)の両県を分割し、上庸郡として都尉を置いた。

8月、合肥が孫権に包囲されるも、張遼と李典に反撃を命じて討ち破った。

9月、巴の七豪族のうち、蛮王(ばんおう)の朴胡(ふこ)と賨邑侯(そうゆうこう)の杜濩(とこ)が、巴の蛮人と賨の住民をこぞって帰順してくる。

そこで巴郡を分割し、朴胡を巴東太守(はとうたいしゅ)に、杜濩を巴西太守(はせいたいしゅ)に、それぞれ任じたうえ、ふたりを列侯に封じた。

9月、献帝から、独断で諸侯・太守・国相を任命する権限を与えられる。

10月、名号侯(めいごうこう。実封のない名称のみの侯)から五大夫(ごたいふ)に至る爵位の制度が定められ、旧来の列侯・関内侯と合わせて6等級とし、それにより功績を賞することになる。

11月、巴中へ逃げていた張魯が、残余の軍勢を引き連れて来降する。これを受け、張魯と5人の息子たちをみな列侯に取り立てた。

11月、先に劉璋から益州を奪った劉備が、巴中も占領する。張郃に劉備攻めを命じた。

12月、南鄭から帰途に就く。この際、夏侯淵を漢中に残した。

-216年(62歳)-
2月、鄴に帰還。

3月、自ら籍田を耕す。

5月、魏王に爵位が進む。

『後漢書』(献帝紀)では4月のこととある。

?月、代郡の烏丸族の行単于である普富盧が、配下の侯王とともに来朝する。

?月、献帝から、娘を公主と呼び、湯沐の邑(とうもくのゆう。化粧料としての領地)を与えることが許される。

7月、匈奴の南単于(なんぜんう)の呼廚泉(こちゅうせん)が、配下の名王を引き連れて来朝する。曹操は賓客の礼をもって待遇し、そのまま魏に引き留めた。

このため、右賢王(ゆうけんおう)の去卑(きょひ)が国元を取り仕切ることになった。

8月、大理(だいり)の鍾繇を魏の相国(しょうこく)に任ずる。

?月、初めて奉常(ほうじょう)と宗正(そうせい)の官を設置する。

10月、兵の観閲を行った後、孫権討伐に向かう。

11月、譙に到着。

-217年(63歳)-
1月、居巣(きょそう)に陣取る。

2月、軍勢を進め、長江(ちょうこう)の西にある郝谿(かくけい)に布陣する。濡須口(じゅしゅこう)にいた孫権は城を築いて抵抗したが、曹操軍の攻撃を受けて退却した。

3月、孫権が降伏を申し入れてきたため、曹仁・夏侯惇・張遼を濡須に留めたうえ、曹操自身は鄴に引き揚げる。

4月、献帝から、天子の旌旗(せいき)を掲げ、出入りの際に警蹕(けいひつ。先払いの戒めの声)を称することを許される。

5月、泮宮(はんきゅう。諸侯の作る学校)を設置する。

6月、献帝が、丞相軍師の華歆(かきん)を御史大夫に任ずる。

?月、初めて(魏国に)衛尉の官を設置する。

8月、布告を出す。「いま天下に最上の徳を持ちながら、民間に捨て置かれた者がないわけはなかろう」とし、「勇敢でわが身を顧みず、敵に向かって力の限り戦う者。文書を扱う俗吏で優れた才能や特別な手腕を持ち、将軍や太守の任に堪えられる者。汚らわしい評判を立てられて、嘲笑されたり不仁不孝であったとしても、国を治め、兵を用いる技術を持った者がいるであろう」ともしたうえ、「それぞれ知っている人物を推挙し、落ちこぼれがないようにせよ」というもの。

9月、鄴に帰還。

10月、献帝から、12旒(りゅう。冠の前後に垂れ下げる飾り玉。天子のものは12ある)の冕(べん。かんむり)を着け、金根車(きんこんしゃ。豪華なお召し車)に乗り、これを6頭立ての馬に引かせ、5つの季節の色(春は青、夏は赤、季夏は黄、秋は白、冬は黒)に塗った副車(そえぐるま)を設けることを許される。

10月、五官中郎将の曹丕を魏の王太子とする。

?月、劉備が、張飛(ちょうひ)・馬超・呉蘭(ごらん)らを遣わして下弁(かべん)に駐屯させる。これに対し、曹洪を遣って守備にあたらせる。

-218年(64歳)-
1月、大医令(たいいれい)の吉本(きつほん)が、少府(しょうふ)の耿紀(こうき)や司直(しちょく)の韋晃(いこう)らと共謀して反乱を起こす。彼らの一味は許を攻め、丞相長史(じょうしょうちょうし)の王必(おうひつ)の陣営に火を放った。

王必は、潁川の典農中郎将(てんのうちゅうろうしょう)の厳匡(げんきょう)とともに討伐にあたり、反乱者たちを斬った。

3月、曹洪が劉備配下の呉蘭を討ち破り、部将の任夔(じんき)らを斬る。張飛と馬超は漢中へ逃げた。

3月、陰平(いんぺい)の氐族の強端(きょうたん)が劉備配下の呉蘭を斬り、その首を送り届けてくる。

4月、代郡と上谷(じょうこく)の烏丸族と無臣氐(ぶしんてい)らが反乱を起こす。息子で鄢陵侯(えんりょうこう)の曹彰を討伐に遣わし、これを討ち破った。

4月、布令を出す。昨年(217年)冬の疫病と地方で起こった戦争に触れ、「70歳以上で夫も子もいない婦人、12歳以下で父母や兄弟のいない子ども、目が見えなかったり手足が不自由で、妻子父兄や財産のない者は、生涯にわたって生活の面倒を見る」というもの。

また「この給付を受ける幼年者は12歳で給付を打ち切る。貧困のために自活できない者には、家族の人数に従って給付する。年老いて扶養を受けなければならない者のうち、90歳以上の者がいる家は、一家にひとり賦役(ふえき)を免除する」とした。

6月、布令を出す。古代の埋葬は、必ず地味の痩せた土地を選んで行われたことを挙げて、「公卿や将軍のうち、功績のある者の墓を寿陵(生前に造る陵墓)に随従させるべきだ」とし、「それらを十分に包含しうるよう、墓域を広大にせよ」というもの。

7月、閲兵を行った後、そのまま劉備討伐のため西へ向かう。

9月、長安に到着。

10月、宛(えん)の守将の侯音(こうおん)らが反乱を起こす。彼らは南陽太守(なんようたいしゅ)を捕らえ、官民を強制的に支配して宛に立て籠もった。

これ以前、曹仁が劉備配下の関羽を討ち破り、樊城に駐屯していた。そこで曹仁に宛の包囲を命じた。

-219年(65歳)-
1月、曹仁が宛を陥し、侯音を斬る。

?月、夏侯淵が陽平で劉備軍と戦って戦死する。

3月、長安から斜谷(やこく)を抜け、自ら軍勢をひきいて陽平に到着。劉備は要害を盾に抵抗した。

5月、漢中から軍勢を引き揚げて長安に帰還。

7月、劉備が漢中王を称する。

7月、卞氏(べんし)を魏の王后に立てる。

7月、于禁を遣わし、樊城の曹仁を助けて劉備配下の関羽を攻めるよう命ずる。

8月、漢水(かんすい)が氾濫し、于禁の陣が水没する。于禁は劉備配下の関羽に捕らえられ、樊城の曹仁も包囲された。そこで、さらに徐晃を救援に差し向けた。

9月、西曹掾(せいそうえん)の魏諷(ぎふう)が鄴で反乱を企てたものの、未遂に終わる。魏の相国の鍾繇を連座させて罷免した。

10月、軍勢をひきいて洛陽に帰還。

?月、孫権から書簡が届き、「関羽を討伐することで忠誠を示したい」と伝えてくる。

?月、曹操自身も関羽討伐のために洛陽から南下したが、到着前に徐晃が関羽を攻め破る。関羽が逃走したため、樊城の曹仁の包囲も自然に解けた。これを受けて、曹操は軍勢とともに摩陂(まひ)に駐留した。

-220年(66歳)-
1月、洛陽に帰還。このころ孫権から劉備配下の関羽の首が届く。

1月、洛陽で病死。

管理人「かぶらがわ」より

『三国志演義』の影響が大きいと思いますが、とかく悪役のイメージが強い曹操。しかし彼の事績をたどってみると、劉備や孫権とは比較にならない実行力を備えていたことがうかがえます。

父の曹嵩を殺されたとき、怒りに任せて徐州で虐殺を行ったり、反抗勢力を徹底的に排除する姿勢にはやりすぎの感がないでもないですが――。

それらを差し引いても、中原(ちゅうげん。黄河中流域)に一定の安定をもたらした功績は高く評価できるはずです。

決して善人型の英雄ではありませんが、まさに時代を超えた傑物と言えるでしょう。

私も『三国志演義』のイメージが先行していたひとりですが、正史『三国志』に触れ、改めて曹操の評価が高まりました。

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