【姓名】 曹子整(そうしせい) ※名は不詳
【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん)
【生没】 ?~218年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・郿戴公子整伝(びたいこうしせいでん)』あり。
魏(ぎ)の曹操(そうそう)の息子で曹丕(そうひ)の異母弟、郿戴公
父は曹操、母は李氏(りし)。同母兄には曹子乗(そうしじょう)、同母弟には曹子京(そうしけい)がいる。
曹子整は、従叔父(おじ)で郎中(ろうちゅう)の曹紹(そうしょう)の跡を継いだ。217年に郿侯(びこう)に封ぜられたが、翌218年に死去。息子はいなかった。
221年、亡き曹子整の爵位がさかのぼって進められ、戴公の諡号(しごう)が追贈された。
この際、彭城王(ほうじょうおう)の曹拠(そうきょ)の息子である曹範(そうはん)が、曹子整の跡継ぎとして立てられた。
管理人「かぶらがわ」より
登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。
『三国志』(魏書・武帝紀〈ぶていぎ〉)には、「203年10月、曹操は袁譚(えんたん)の娘を曹子整の妻に迎えたが、翌204年に袁譚が反旗を翻したため、離縁して送り帰した」とあります。
この縁組について裴松之(はいしょうし)は、「父である袁紹(えんしょう)の死(202年5月のこと)から、このときまで1年5か月を過ぎただけであること」を指摘したうえ。
「袁譚は家を出て伯父の家を継いでいた(このあたりの事情はよくわからず)ので、実父である袁紹のために3年の喪に服さなくてもよいとはいえ、2年以内に婚礼を行うのは道義に外れている」と述べ。
「あるいは曹操は、臨機の処置として袁譚と約束をしたのかもしれない。ここで縁組をしたというが、すぐさまこの年に婚礼を行ったとは限らない」と結論づけています。
なお「武帝紀」より記述は簡素ながら、『三国志』(魏書・袁紹伝)に付された「袁譚・袁尚伝(えんしょうでん)」にも「曹操が袁譚と縁組をした」という記事がありました。
追記
『三国志事典』(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉著 大修館書店)を拝読したところ、この曹整については「曹子整」で項目が立てられており、追贈された諡号のほうを戴公と解釈されていました。
この件は以前から引っかかっていたので、2017/7/3に関連する記事の修正を行いました。
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