麋竺(びじく)

【姓名】 麋竺(びじく) 【あざな】 子仲(しちゅう)

【原籍】 東海郡(とうかいぐん)胊県(くけん)

【生没】 ?~221年?(?歳)

【吉川】 第043話で初登場。
【演義】 第011回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・麋竺伝』あり。

劉備(りゅうび)の困窮を救った温厚な富豪。弟の裏切りに責任を感じて病死

父母ともに不詳。麋芳(びほう)は弟で、劉備に嫁いだ妹もいた。息子の麋威(びい)は跡継ぎ。

麋竺の家は代々貨殖に励み、やがて1万人もの召し使いを抱えるまでになり、その資産は莫大なものだった。麋竺は徐州牧(じょしゅうぼく)の陶謙(とうけん)から招聘(しょうへい)され「別駕従事(べつがじゅうじ)」に任ぜられた。

194年、陶謙が死去すると麋竺は遺命を奉じ、小沛(しょうはい)にいた劉備を新たな「徐州牧」として迎える。

196年、劉備が袁術(えんじゅつ)の侵攻を防ぐべく出撃した際、呂布(りょふ)の急襲を受けた下邳(かひ)が陥落。劉備の妻子も捕らえられてしまう。そのため劉備は軍勢をひきい、広陵郡(こうりょうぐん)の海西(かいせい)に移る。

このとき麋竺は妹を劉備の夫人として差し出したうえ、さらに2千人の奴僕と金銀貨幣を提供し軍資を助けた。おかげで劉備は勢いを盛り返すことができたという。

のち麋竺は曹操(そうそう)の上表により「嬴郡太守(えいぐんのたいしゅ)」に任ぜられたものの、官職を捨て劉備に付き従った。

本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『曹公集(そうこうしゅう)』によると、嬴郡は曹操の上表により一時的に置かれた郡で、広大な泰山郡(たいざんぐん)から5県を分割したもの。

201年、劉備が荊州(けいしゅう)の劉表(りゅうひょう)を頼ろうと考えた際、麋竺は「左将軍従事中郎(さしょうぐんじゅうじちゅうろう)」となり、ひと足先にあいさつに行く。

このとき劉備は漢(かん)の「左将軍」だった。

214年、劉備が成都(せいと)で劉璋(りゅうしょう)を降した後、麋竺は「安漢将軍(あんかんしょうぐん)」に任ぜられた。その席次は軍師将軍(ぐんししょうぐん)の諸葛亮(しょかつりょう)より上位だったという。

219年、南郡太守(なんぐんたいしゅ)の麋芳が関羽(かんう)と仲たがいし、劉備を裏切り孫権(そんけん)に付いた。これが関羽敗北のきっかけとなる。

麋竺は責任を感じ、後ろ手に縛った姿で処罰を乞うたが、劉備は弟の罪に連座することはないと諭し、これまで通り厚遇。だが、麋竺は恥と怒りのために病を得、1年余りして死去した。息子の麋威が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると、麋竺は穏やかで誠実な人柄だったものの、多くの人々を統率するようなことは苦手だったそうです。そのため上賓の礼をもって遇されていたが、一度も軍勢をひきいることはなかったとも。

それでも麋竺に匹敵する恩賞や寵愛を受けた者はいなかったといい、劉備が彼から受けた物心両面のサポートに感謝していた様子がうかがえます。

弟の麋芳の裏切りが、兄としてよほどショックだったのでしょう。麋竺の没年はイマイチはっきりせず、220年の可能性もあると思われます。

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