陳羣(ちんぐん)A ※あざなは長文(ちょうぶん)、陳寔(ちんしょく)の孫、魏(ぎ)の潁陰靖侯(えいいんせいこう)

【姓名】 陳羣(ちんぐん) 【あざな】 長文(ちょうぶん)

【原籍】 潁川郡(えいせんぐん)許昌県(きょしょうけん)

【生没】 ?~236年(?歳)

【吉川】 第182話で初登場。
【演義】 第058回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・陳羣伝』あり。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

曹氏(そうし)3代(曹操〈そうそう〉・曹丕〈そうひ〉・曹叡〈そうえい〉)に仕えた人格者、潁陰靖侯(えいいんせいこう)

父は陳紀(ちんき)だが、母は不詳。陳寔(ちんしょく)は祖父。陳諶(ちんしん)は叔父。息子の陳泰(ちんたい)は跡継ぎで、ほかにも息子がいたことがうかがえる。

194年、陳羣は豫州刺史(よしゅうしし)の劉備(りゅうび)に召されて別駕(べつが)を務めた。

この年、陶謙(とうけん)が病死し、徐州(じょしゅう)では劉備を迎えようとする。

陳羣は、いまだ袁術(えんじゅつ)が強力であるとし、東方へ行けば必ず戦争になると指摘。そのとき呂布(りょふ)に背後から襲われれば、たとえ将軍(劉備)が徐州を手に入れても、決して事は成功しないと忠告した。

だが、劉備は聞き入れずに徐州へ行き、196年には袁術と戦うことになる。

すると、やはり呂布が下邳(かひ)を襲撃し、袁術も兵を出して助けたため、劉備軍は大破されてしまう。劉備は陳羣の忠告を容れなかったことを悔やんだという。

後に陳羣は茂才(もさい)に推挙され、柘県令(しゃけんれい)に任ぜられたものの就任せず、父の陳紀に付いて徐州へ避難した。

198年、曹操が下邳で呂布を処刑すると、陳羣を召して司空西曹掾属(しくうせいそうえんぞく)に任ずる。

曹操が司空を務めていた期間は196~208年。

その後、陳羣は蕭県令(しょうけんれい)、賛県令(さんけんれい)、長平県令(ちょうへいけんれい)を歴任し、父が亡くなったことから官を離れた。

やがて司徒掾(しとえん)として再び登用されたが、好成績によって推挙され治書侍御史(ちしょじぎょし)となり、参丞相軍事(さんじょうしょうぐんじ)に転じた。

曹操が丞相を務めていた期間は208~220年。

213年、魏が建国された後、陳羣は御史中丞(ぎょしちゅうじょう)に昇進する。

このころ曹操が肉刑(身体を傷つけたり切断したりする刑)の復活を論じた。

陳羣は、殺人罪による死刑はやむを得ないが、そのほかに死刑判決を受ける罪は減刑すべきだとして、現在の鞭(むち)で打ち殺す方法による(昔の)死刑以外の刑(肉刑)の代用をやめ、肉刑をもってこれに代えるよう主張する。

鍾繇(しょうよう)は陳羣の意見に賛成したが、王朗(おうろう)ら多くの者は、まだ肉刑を用いるべきではないとの反対意見を述べた。

曹操は陳羣や鍾繇の考えに深い賛意を表したものの、まだ軍事行動も終わっていないからと、多数派の意見を顧慮してひとまず沙汰やみとした。

陳羣は侍中(じちゅう)に転じ、丞相の東西の曹掾を配下に置く。

陳羣は朝廷において好悪で判断することがなく、いつも名誉と道義に拠り、道義に外れたことを人に押しつけなかった。

そのため王太子(217~220年)の曹丕から深い敬意をもって重んぜられ、友人として礼遇された。

220年2月、曹丕が魏王(ぎおう)を継ぐと、陳羣は昌武亭侯(しょうぶていこう)に封ぜられ、尚書(しょうしょ)に転ずる。

同年10月、曹丕が帝位に即くと尚書僕射(しょうしょぼくや)に昇進し、侍中の官位を加えられた。

この年、曹丕は「九品官人法(きゅうひんかんじんほう)」を施行したが、これは陳羣の建議にかかるものだった。

後に陳羣は尚書令(しょうしょれい)に昇進し、潁郷侯(えいきょうこう)に爵位が進む。

224年9月、曹丕が孫権(そんけん)討伐のため広陵(こうりょう)まで親征した際、陳羣は中領軍(ちゅうりょうぐん)を兼ねる。

また、曹丕の帰還時には節(せつ。権限を示すしるし)を賜り水軍を統率した。

同年10月、曹丕が許昌に帰還する。

翌225年、陳羣は鎮軍大将軍(ちんぐんだいしょうぐん)に任ぜられて中護軍(ちゅうごぐん)を兼ね、尚書の事務も取り扱うこと(行尚書事〈こうしょうしょじ〉)になる。

翌226年1月、曹丕が洛陽(らくよう)に還幸する。

同年5月、曹丕の病が重くなると、陳羣は曹真(そうしん)や司馬懿(しばい)らとともに遺詔を受け、政治を補佐することになる。

この月のうちに曹丕は崩じ、曹叡が帝位を継ぐ。陳羣は潁陰侯に爵位が進み、500戸の加増を受ける。以前と合わせて封邑(ほうゆう)は1,300戸となった。

さらに征東大将軍(せいとうだいしょうぐん)の曹休(そうきゅう)、中軍大将軍(ちゅうぐんだいしょうぐん)の曹真、撫軍大将軍(ぶぐんだいしょうぐん)の司馬懿とともに、独自に府(役所)を開設して属官を置くことが許された。

同年12月、陳羣は司空に昇進し、引き続き尚書の事務も取り扱う。

太和(たいわ)年間(227~233年)、曹真が上奏文を奉り、数本の道から蜀(しょく)の討伐に向かい、自身は斜谷(やこく)から進みたいと願い出る。

陳羣は、以前(215年)の張魯(ちょうろ)攻めの折、兵糧が欠乏し苦労したことに触れて熟慮を求めた。

このとき曹叡は陳羣の意見に従い、出兵は見合わせとなった。

230年、曹真が再び上奏文を奉り、子午道(しごどう)から蜀へ進みたいと願い出る。

陳羣は不都合を論じ、軍事行動に必要な費用を計算して上言する。

詔(みことのり)により陳羣の意見は曹真に下げ渡されたが、同年7月、曹真は出兵を強行した。

ほどなく大雨のために各地で河川が氾濫すると、陳羣は曹真を帰還させるべきだと主張。同年9月、曹叡は詔を下して曹真に帰還を命じた。

232年、皇女の曹淑(そうしゅく)が生後1年も経たずに亡くなったが、封邑を追贈されたうえ、平原懿公主(へいげんいこうしゅ)と諡(おくりな)される。

この際、曹叡に礼の規範を逸脱した行いが目立ち、陳羣らは上奏文を奉って諫めたものの、聞き入れてもらえなかった。

青龍(せいりょう)年間(233~237年)、宮殿造営の労役により、民は農耕の時期を奪われる。

陳羣は上奏文を奉り、呉(ご)や蜀が滅亡しないうちは国家も安定しないとし、彼らが行動を起こす前に軍事訓練を行ったり農事を奨励したりし、それに備えるのが当然だと指摘する。

そして、こうした緊急の事をおき、先に宮殿の造営を行えば、民は困苦してしまう。これではどのように敵に対応するのか懸念されると諫めた。

曹叡は計画の一部を縮小したものの、宮殿の造営を取りやめることはなかった。

236年、陳羣が死去すると靖侯と諡され、息子の陳泰が跡を継ぐ。曹叡は彼の功績と徳義を思い起こして封邑を分け、別の息子ひとりを列侯(れっこう)に封じた。

管理人「かぶらがわ」より

陳羣は特に曹丕から礼遇され、曹休・曹真・司馬懿とともに後事を託されるほどでしたけど、国家の安定を第一に考えた手堅い進言が目立ちます。

そのぶん対外戦略は消極的に見えますが、蜀や呉としては、魏が積極的に動いてくれないと付け入る隙もないのですよね……。

本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く王沈(おうしん)の『魏書』によると――。

たびたび陳羣は政治の得失について密奏したが、封緘(ふうかん)した上奏文を奉るときはいつも草稿を破棄したそうで、当時の人々や彼の子弟は内容を知ることができなかったのだと。

なので論者のうちには、陳羣は官にありながら何もせず沈黙している、と非難する者もあったという。

後に曹芳(そうほう)の正始(せいし)年間(240~249年)、詔によって群臣の上書を編纂(へんさん)した『名臣奏議(めいしんそうぎ)』が作られると、朝廷の人士は初めて陳羣の諫草(天子〈てんし〉を諫める上奏文の原稿)を見て、みな感嘆したのだとか。

そして意外だったのは、陳羣が初めは劉備に仕えていたこと。

本伝の記事だけではわかりにくかったのですが、わずか数年で劉備を見限ったということでしょうか? 別駕と言えば、州の次官クラスなのに。

コメント ※下部にある「コメントを書き込む」ボタンをクリック(タップ)していただくと入力フォームが開きます

タイトルとURLをコピーしました