李恢(りかい) ※あざなは徳昂(とくこう)

【姓名】 李恢(りかい) 【あざな】 徳昂(とくこう)

【原籍】 建寧郡(けんねいぐん)愈元県(ゆげんけん)

【生没】 ?~231年(?歳)

【吉川】 第191話で初登場。
【演義】 第060回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・李恢伝』あり。

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南方の平定と統治に多大な貢献

父母ともに不詳。李球(りきゅう)は弟。息子の李遺(りい)は跡継ぎ。

初め李恢は郡に仕えて督郵(とくゆう)となったが、建伶県令(けんれいけんれい)を務める姑(おば)の夫の爨習(さんしゅう)が法に違反したため、彼も連座して免官になるところだった。

しかし益州太守(えきしゅうたいしゅ)の董和(とうか)は、爨習がこの地方の豪族であることを考慮して不問に付したので、李恢も免官されずに済む。

211年、劉備(りゅうび)が劉璋(りゅうしょう)の要請を受けて蜀へ入り、翌212年には葭萌(かぼう)から反転して劉璋を攻めた。後に李恢は州に推挙されたが、成都(せいと)へ向かう道中でこの話を聞く。

李恢は劉璋の敗北を確信したので、郡の使者という名目で劉備のもとへ行き、213年、緜竹(めんちく)において目通りする。

その席で劉備から評価されたため、李恢が付き従って雒城(らくじょう)に至ると、命を受けて漢中(かんちゅう)へ赴き、行き場を失っていた馬超(ばちょう)を味方に引き入れることに成功した。

翌214年、劉備は成都で劉璋を降した後、益州牧(えきしゅうぼく)を兼ねたが、李恢は功曹書佐主簿(こうそうしょさしゅぼ)に任ぜられる。

後に逃亡者が誣告(ぶこく)を行い、「李恢は謀反の一味だ」と申し立てたため、担当官吏が李恢を逮捕して護送する。

だが、劉備は李恢の潔白をはっきりさせたうえ、改めて別駕従事(べつがじゅうじ)に起用した。

221年、庲降都督(らいこうととく)の鄧方(とうほう)が死去すると、李恢は庲降都督・使持節(しじせつ)・交州刺史(こうしゅうしし)に転じて、平夷県(へいいけん)に住むことになった。

223年、劉備が崩ずると、越嶲郡(えっすいぐん)で高定(こうてい)が、建寧郡で雍闓(ようかい)が、牂牁郡(そうかぐん)で朱褒(しゅほう)が、それぞれ反旗を翻す。

建寧郡が置かれたのは、正確には225年の諸葛亮(しょかつりょう)の南征後のこと。

225年、丞相(じょうしょう)の諸葛亮が南征に乗り出すと、李恢も別動隊をひきいて建寧へ向かい、昆明(こんめい)で敵の大軍に包囲された。

そこで李恢は、南方の人々にこう告げた。

「官軍は兵糧が尽き、引き揚げたいと考えているところだ。私はしばらく郷里(建寧)を離れていたが、ようやく帰ってくることができた。もう北へは戻れない。きみたちとともに計ろうと思ったから、こうして本心を打ち明けるのだ」

みな彼の言葉を信じ、蜀軍に対する包囲が緩む。すると李恢は、この機に出撃して敵軍を大破した。

さらに追撃を加え、南は槃江(はんこう)まで行き、東は牂牁へ近づき、諸葛亮の本軍と連絡を通じて威勢を示す。

この年のうちに南征は成し遂げられ、李恢は軍功が大きかったため安漢将軍(あんかんしょうぐん)の官位を加えられ、漢興亭侯(かんこうていこう)に封ぜられた。

しかし蜀軍の帰還後、再び南方の蛮族が背いて守将を殺害した。

李恢は自ら討伐に向かい、悪人どもを根絶やしにし、蛮族の有力者を成都へ移住させたうえ、叟(そう)や濮(ぼく)の耕牛・軍馬・金銀・犀革(さいかく)を上納させる。これらが軍資に充てられた結果、経費が不足する心配がなくなったという。

叟および濮は、土着の少数民族の名称。

229年、交州が呉(ご)に属することになったため、李恢は交州刺史の任を解かれ、改めて建寧太守を兼ね、本籍の郡に住むことになる。その後は漢中へ移った。

231年、李恢は死去し、息子の李遺が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

南征の成功がなければ、当然ながら蜀は北伐に取りかかることができませんでした。

その南征という大事を1年以内に終えられたのは、当地の事情に通じた李恢らの働きによるところが大きかったでしょう。

というより、いくら諸葛亮の戦略が優れていても、李恢の活躍なくしては成果を上げられなかったとさえ思えます。

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