【姓名】 孟康(もうこう) 【あざな】 公休(こうきゅう)
【原籍】 安平郡(あんぺいぐん)
【生没】 ?~?年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。
コネ登用の悪評を吹き飛ばす活躍
父は不詳(孟姓のはず)、母は郭昱(かくいく)か?
★郭昱は文徳郭皇后(ぶんとくかくこうごう。曹丕〈そうひ〉の皇后)の姉。
曹丕の黄初(こうしょ)年間(220~226年)、孟康は郭皇后の親戚だったため九親(きゅうしん)の待遇を受け、散騎侍郎(さんきじろう)に任ぜられる。
★九親は父方の4代、母方の3代、妻方の2代、これらを合わせた親族のこと。
そのころ散騎侍郎には、優れた才能を持つ者や立派な儒者を充てていた。
しかし孟康は皇后の縁者という理由で起用されたため、みな軽視して「阿九(あきゅう。九ちゃん)」と呼んだ。
それでも孟康は頭の働く人だったので、閑職にあることを幸いに広く書物を読む。
後に弾劾駁論(ばくろん)する機会があったが、孟康の文章は品があり、内容も適切だった。そのため人々は彼の見方を改め、一転して敬意を示すようになったという。
237年、司徒(しと)と司空(しくう)が欠員になった際、散騎侍郎の孟康は司隷校尉(しれいこうい)の崔林(さいりん)を推薦した。
曹芳(そうほう)の正始(せいし)年間(240~249年)になると、孟康は地方へ出て弘農太守(こうのうたいしゅ)を務め、典農校尉(てんのうこうい)を兼ねる。
着任後、孟康は清潔さをもって職務に励み、善を嘉(よみ)する一方、善を行えない者にも哀れみをかけた。こうして裁判沙汰を減らし、住民の希望に沿って利益をもたらす。
孟康配下の郡吏は200余人いたが、正月ごろには休暇を与えるよう取り計らってやり、このほかにも普段から4分の1の者に休暇を取らせた。
孟康はいったん承諾したことを引き延ばさず、巡察に出る際はあらかじめ督郵(とくゆう。官名)に命じ、(不備を指摘せずに済むよう)川や池を整備させておく。さらに行く先々へ人を遣り、属官らが無理に敬意を示すことのないようにさせた。
また、吏民を煩わせないよう配慮し、巡察時には各自が鎌を持ち、馬に与える草を刈って進んだ。孟康の一行は宿舎を使わず、樹木の下で野宿し、お供の数も10余人にすぎなかったという。
弘農郡は多くの街道に囲まれていたが、孟康は郡を通る賓客に対しても、公法に該当しなければ品物を支給することはない。旧知の者が訪ねてきた場合は自分の家から出し、きちんとけじめをつけた。
初め孟康が太守に任ぜられたとき、人々は彼の志と器量は承知していたものの、長官を務めた経験がなかったため能力は保証できないと考えた。
しかし孟康の恩沢と統治能力がわかってくると、官民はたたえて歌にうたうほどになった。
嘉平(かへい)年間(249~254年)の末、孟康は勃海太守(ぼっかいたいしゅ)から召し還されて中書令(ちゅうしょれい)となり、やがて中書監(ちゅうしょかん)に転ずる。
その後、孟康は病のため辞職(時期は不明)したという。
管理人「かぶらがわ」より
上で挙げた記事は『三国志』(魏書・杜畿伝〈ときでん〉)に付された「杜恕伝(とじょでん)」の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略』によるもの。
また、崔林を推挙した件は『三国志』(魏書・崔林伝)に見えます。
孟康のようにコネで登用された人は、実務能力のないことが多いですけど――。彼は「阿九」の貶称(へんしょう)に腐ることなく勉学に励み、悪評を吹き飛ばしました。
魏の外戚のひとりですから九卿(きゅうけい)にはなれませんでしたが、心がけは立派だったと思います。
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