鍾離牧(しょうりぼく) ※あざなは子幹(しかん)

【姓名】 鍾離牧(しょうりぼく) 【あざな】 子幹(しかん)

【原籍】 会稽郡(かいけいぐん)山陰県(さんいんけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・鍾離牧伝』あり。

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五谿(ごけい)の異民族による反乱を迅速に鎮定し、蜀(しょく)滅亡時の混乱から呉を救う

父は鍾離緒(しょうりしょ)だが、母は不詳。鍾離駰(しょうりいん)は兄。息子の鍾離禕(しょうりい)は跡継ぎで、鍾離盛(しょうりせい)と鍾離徇(しょうりじゅん)も同じく息子。

鍾離牧は鍾離意(しょうりい)の7世の孫にあたる。鍾離意は後漢(ごかん)の光武帝(こうぶてい。在位25~57年)と明帝(めいてい。在位57~75年)に仕え、尚書僕射(しょうしょぼくや)や魯国相(ろこくしょう)を務めた。

鍾離牧は若いころ永興(えいこう)に移住し、自ら開墾した20余畝(ほ)で米を作る。ところが収穫期を迎えると、ここは自分の土地だと主張する者が現れた。

すると鍾離牧は、「もとの田地が荒れていたから私が開墾したまでだ」と言い、実った稲ごと土地を譲る。

この話を伝え聞いた県長(けんちょう)は、土地を譲られた男を投獄して処罰しようとしたが、鍾離牧は彼のために執り成す。

さらに県長が考えを変えないと見るや、鍾離牧は、この地を去って山陰に戻ると言いだした。

そのため県長は投獄した男を釈放し、恥じ恐れた男のほうも、妻子とともに鍾離牧の住まいを訪ね、精米した60斛(こく)を返そうとする。

しかし鍾離牧は受け取ろうとせず、その男も米を置いて帰ったので、引き取り手のない米が道端に残された。このことがあってから鍾離牧の名が知られるようになったという。

242年、鍾離牧は郎中(ろうちゅう)から太子輔義都尉(たいしほぎとい)となり、やがて南海太守(なんかいたいしゅ)に昇進。

後に中央へ戻って丞相長史(じょうしょうちょうし)を務め、司直(しちょく)を経て中書令(ちゅうしょれい)に昇進した。

このころ(257年?)、建安(けんあん)・鄱陽(はよう)・新都(しんと)の3郡で山越(さんえつ。江南〈こうなん〉に住んでいた異民族)の反乱が起こり、鍾離牧は監軍使者(かんぐんししゃ)として討伐に向かう。

反乱の鎮定に成功すると、降伏した頭目の黄乱(こうらん)や常俱(じょうく)らの配下を兵役に就かせた。

鍾離牧は功により越騎校尉(えっきこうい)に任ぜられ、秦亭侯(しんていこう)に封ぜられた。

263年、蜀が魏(ぎ)に併吞されると、呉では武陵(ぶりょう)の五谿に住む異民族の反乱を心配する声が上がる。

そこで鍾離牧が平魏将軍(へいぎしょうぐん)・武陵太守に任ぜられ、武陵へ赴くことになった。

これに対して魏は、漢葭県長(かんかけんちょう)の郭純(かくじゅん)を仮の武陵太守に任じ、涪陵(ふうりょう)の住民をひきいて武陵へ向かわせる。

郭純は遷陵(せんりょう)の辺りまで進んで赤沙(せきさ)に留まると、異民族の部族長に働きかけて魏に付くよう勧めた。その結果、郭純の話に乗る者も現れた。

こうして郭純が酉陽(ゆうよう)まで侵攻してくると、武陵の郡中は大いに動揺する。

鍾離牧は部将たちの反対を押し切り、わずか3千の兵をひきいて昼夜兼行で2千里近くも険しい山道を進み、異民族の集落へ踏み込む。そして呉に背いた100余人の頭目と一味の者1千余人を斬る。

郭純らの勢力は四散し、五谿の地は平定された。

鍾離牧は揚武将軍(ようぶしょうぐん)・公安督(こうあんとく)に昇進し、都郷侯(ときょうこう)に爵位が進み、やがて濡須督(じゅしゅとく)に転ずる。

後に前将軍(ぜんしょうぐん)・仮節(かせつ)に昇進し、武陵太守を兼ねた。

鍾離牧は在官のまま死去(時期は不明)し、息子の鍾離禕が跡を継いだ。家に財産が残されていなかったため、士人や民は彼の徳を追慕したという。

管理人「かぶらがわ」より

本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く虞預(ぐよ)の『会稽典録(かいけいてんろく)』には、鍾離牧が濡須督を務めていたころ、侍中(じちゅう)の朱育(しゅいく)と交わした酒席でのやり取りがありました。

鍾離牧は、こちらから積極的に軍勢を動かせば、きっと有利に事を進められると確信を持っていたそうですが、こうした策を孫晧(そんこう)に上陳しませんでした。

朱育は鍾離牧がため息をつくのを見て、朝廷でうまく立ち回って高位を得る者が多い中、彼は自分の功績が認められないことを嘆いているのだと感じ、同情するような言葉をかけます。

しかし鍾離牧は笑って応え、私は過分な恩寵を受けているが、陛下に十分に理解されておらず、朝廷の者たちの嫌がらせもあるから、献策せずに黙っているのだと言い――。

このような状況でなければ、積極的な進攻策を上陳してご恩に報いたいと思っているが、それができないからため息をついたのだと、その心中を明かしました。

さらに鍾離牧は、(231年の)太常(たいじょう)の潘濬(はんしゅん)の武陵討伐や(237年の)丞相(じょうしょう)の陸遜(りくそん)の鄱陽討伐に従軍した際、自分の部隊が置き去りにされ、援軍を送ってもらえなかったことを振り返り――。

そのときは何とか帰還できたものの、今回もうまくいくかはわからない。よく考えずに上陳して許可されれば、結局は敗軍の憂き目を見るだろう、とも語りました。

鍾離牧の判断は賢明だったと思います。仮に献策が認められて出兵しても、後ろを気にしなくてはいけないのでは、まともに戦えるはずがありませんからね。

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