甄氏(しんし)A ※曹丕(そうひ)の妻、文昭甄皇后(ぶんしょうしんこうごう)

【姓名】 甄氏(しんし) ※名とあざなは不詳

【原籍】 中山郡(ちゅうざんぐん)無極県(ぶきょくけん)

【生没】 182~221年(40歳)

【吉川】 第120話で初登場。
【演義】 第033回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・文昭甄皇后伝(ぶんしょうしんこうごうでん)』あり。

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魏(ぎ)の曹丕(そうひ)のもと正室、文昭甄皇后

父は上蔡県令(じょうさいけんのれい)を務めた甄逸(しんいつ)、母は常山(じょうざん)の張氏(ちょうし)。

甄家は漢(かん)の太保(たいほ)を務めた甄邯(しんかん)の後裔(こうえい)で、代々二千石(せき)の官吏だった(つまり名門)。

初め袁紹(えんしょう)の次男の袁熙(えんき)に嫁いだものの、204年に鄴城(ぎょうじょう)が陥落した際、曹丕に見初められた。並外れた美貌の持ち主だったという。

その後、曹丕との間に曹叡(そうえい)と東郷公主(とうきょうこうしゅ)を儲けた。ただ、曹叡の誕生については謎が残る。

220年10月、曹丕は漢の禅譲を受ける形で帝位に即いたが、甄氏が正式に皇后に立てられることはなかった。

そして翌221年6月、甄氏は鄴で亡くなった。ほどなく曹丕から皇后の印綬(いんじゅ)が贈られたともいうが、諡号(しごう)を追贈されたのは曹叡の代になってのことだった。

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管理人「かぶらがわ」より

甄氏の死について『三国志』(魏書・文帝紀〈ぶんていぎ〉)には、221年6月丁卯(ていぼう)の日(28日)に亡くなったことを簡潔に記すのみです。

『三国志』(魏書・文昭甄皇后伝)では、「曹丕が帝位に即いたあと山陽公(さんようこう。禅譲した漢の献帝〈けんてい〉)の娘ふたりが側室に加わり、郭氏(かくし)・李氏(りし)・陰氏(いんし)らも寵愛を受けたため、失望した甄氏が恨みごとを言った」とあり、「曹丕が非常に腹を立て、221年6月、鄴にいた甄氏のもとに使者を遣わし自殺を命じた」のだとしていました。

ところが、『三国志』(魏書・文昭甄皇后伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く王沈(おうしん)の『魏書』によると、「帝位に即いた曹丕は、甄氏を皇后に立てようと3度も詔(みことのり)を下したものの、3度とも甄氏が辞退した」とあり、「秋を待ち改めて鄴から迎えようとしていたところ、甄氏が病により重体となり、そのまま鄴で崩じた」ということになっています。

裴松之は、「曹丕が甄氏を皇后に立てず殺害に及んだことには、はっきりとした証拠がある」と述べたうえ、ここで引いた(王沈の)『魏書』が称えている甄氏の善い言動については、「すべて真実に基づいたものとは言いがたい」としています。確かに(王沈の)『魏書』では、甄氏に対する好意的な記事が目立ちますね。

ということで、甄氏について取り上げられている逸話がどのくらい事実を反映しているのかつかみにくいですが――。その美貌ゆえ波乱の生涯を送ることになった、ということだけは言えそうです。

甄氏は3歳で父を亡くしたそうですが、3人の兄(甄豫〈しんよ〉・甄儼〈しんげん〉・甄堯〈しんぎょう〉)と4人の姉(甄姜〈しんきょう〉・甄脱〈しんだつ〉・甄道〈しんどう〉・甄栄〈しんえい〉)がいたということです。兄姉も美男美女ぞろいだったのでしょうか?

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